丹生

丹生というのは文字通り丹を生産するということで辰砂が採れた土地のことらしい。

だいたい川だ。

だいたい山の中だ。

だいたい綺麗な水が流れている。

丹生というのは日本中にある。

あああ、私はもう最近夜中によく目が覚める。寒くなってきたからだと思う。日中蒙昧である。認知機能が落ちている。

おれは来年からやっていけるのか?

引っ越さねばならないけど部屋はどうするのか。

私は京大の小児科プログラムに進むことにした。

なぜ?兄貴の直観に頼ったのもある。京大に行かねばならぬ気がした。

車はどうする?今年車検だ。お金が減る。小児科学会に入らないと。CVもPICCも自分一人で入れられない。縫合もほとんどやらずに来た。どの研修医よりも誰よりも時間と内面とで患者に向き合った事実はある。しかし大学では能力だけを見られるだろう。

伊勢の大神様を心に拝すれば、全く問題ないと言われている気がする。

診療所の実習を近頃行っている。所長の先生には毎日とてもよい昼飯を食べさせてもらっている。私は大した働きもせず大層な昼飯をご馳走になるから恐縮している。所長の奥方は看護師で有能な人だ。彼女から恐らく私は嫌われたらしい。2日目に5分遅刻したのが発端かもしれない。ただでさえ私は女性から嫌われることが多い。私がおどおどしているからかもしれない。それは私が不器用で、何をしたらよいかいつも困っているからだ。私は自分に何らかの発達障害的な傾向があることを疑う。近頃いよいよ認知機能が落ちて来た気がする。

先日人を吉野に案内した。

吉野は神代の土地だ。古い神々と天皇家のゆかりの土地だ。私の曽祖母もまた吉野の人間であり、みかどへの感情や雰囲気は理解できる。

丹生川上神社中社は日置川の清流のたもとにあり吉野宮の伝承地である。

「どこが本当の丹生川上神社なのか」という論争にあまり意味があるとは思えない。そのあたりの論争に詳しくないし興味がないから書かない。

川は美しく水清く紅葉が赤く色づく様は万人を感動させる。

神社にお参りして「そのままではいかん」と思ったことはあまりない。特に医者となった後は全く無い。俗界でさんざん軽んじられ、私自身自らの無能に喘いでいるのに、神前では何も問題無く思える。膨大なことに悩みながら手を合わせても、格別に願い求めることが何もない。

世の中は嫌なものだ。人間は嫌なものだ。ものごとをどんどん複雑にして喜んでいる。

空谷子しるす

覚書10

何十年も前に言うべきことを言えずに離れた人とすれ違いざまに、もっと前に暖炉のある家でワインを傾けて、頬を照らし何も言わず、むしろ毒づいていっそ嫌われようとしたその人と施設で再開したときには互いに顔もわからず、記憶も曖昧で言葉も出ないが静かに微笑みを交わし合い、「どこかでお会いしましたっけ」と昨日のことも忘れて、それでも他生の縁と思うのは巡りめぐってただ正しいこと以上に実に正しいことのように思われた。

彼は若い頃に男に接吻された話をした。「そういうことも何度かあった」テーブルの吸い飲みを加えて少し咽せ込んだ。車椅子を挟んだ正面に窓があり、眩しそうに揺れる木の枝のあたりを見つめている。

私は彼がするテレビゲームの画面を見ていた。彼はゲームの最中、ローディングの時間だったか、おもむろに振り返り唇をあててきた。産毛のような髭の感触が口元に残る。彼はじっと私をみて、何事もなかったかのようにゲームを続けた。

彼はまた吸い飲みに手をかけたが、今度は飲まずに少し吸い飲みのお茶を揺らしただけだった。

彼が何度唇を押しつけてきたのかもはや覚えていない。中学の頃の話だ。彼はもっと親密になろうとした。私がそれを拒んだのはある種の羞恥からで、けして彼のことを拒んだわけではなかったが、それから彼は私の家に来なくなった。高校に上がった頃には綺麗な彼女とうまくやっているらしいというのを風の便りで聞いた気がするが、夢かもわからない。私もそれからだいぶ先の話にはなるが、女性と付き合うようになった。男性との関係は一切なかった。世にこんなにも男がいるのに勿体ないと言う人の気持ちはわからないことはない。ただあえて出会おうとする気がなければ、機会は極端に少なく女性のほうに結局流れるのだろう。

彼は別室の彼女のところを足繁く訪ねた。尿道に繋がった管に気づかずに、尿の入ったバッグを置いたまま走り出すものだから看護者にとっては厄介な行動であったかもしれないが、彼は手を縛られようと、体を縛られてようと、手袋をつけられようと、囚人服のような服を着せられようと、何をされようが拘束具をひきちぎってでも彼女のもとへ向かおうとした。彼は「妻だ」という。彼女のもとへ無事辿り着くと、奇妙なことだが自然と懐かしい気持ちが溢れてくるのか、穏やかな表情になり布団を掛け直し、今日もいい天気だねと窓の外を眺める。彼女は視線が合わないまま遠い方を見つめている。

南宮

人間的な意味が充満している。

私は相変わらず病院内でなにもわからず棒立ちで、中堅の医師や一年目の優秀な研修医から見下されている。

一年目の医師たちは器用で人付き合いもよくさまざまな社会基盤を作り上げていく。それは鮭の遡上やかっこうの托卵のような本能的な仕草で、幼い頃から続けてきた成功の道筋を今もなぞっているかのようだ。

幼い頃からといえば私もまた幼い頃から変わっていない。人から見下され、能力がないので何をすべきかがいつも見えない。目に霧がかかったようにぼんやりしている。あまりに何もできないから自分が生きていても仕方なく思える。

人間的な意味が私の頭の中に充満している。私は人間的な世の中に適応できていない。だからといってどこかに私が適応できる場所があるわけではない。神社も本屋も行くだけなら自由だがその中で私は仕事ができないだろう。

南宮大社は美濃の一宮で鉄の神様を祀る。

南宮にお参りしたのは随分前で今年の春ごろだったろうか。なんだかよくわからないが裏手の南宮山にも登拝した覚えがある。

特に南宮大社にこだわる意図はないのだが文章の主題を医療の言葉にしたくなかった。なんだか癪なのだ。私はいよいよ「医療」とか「医者」とかが嫌いになってきた。しかしながら医療は好むのである。なんとか助けになる手立てを知りたいと思う。しかしいわゆるガイドラインや教科書を見ても何をどうしたらよいかわからない。自分の知能の低さが嫌になる。

私は医療現場に向いていないのか、そもそも能力が低くて複雑な仕事に向かないのか、年季でなんとかなる問題なのか、私には何もわからない。

人間的な意味が充満している。その人間的な意味は時代や空間によって異なる。

私は人間はこの上なく好ましく思う。しかし私は人間を心底嫌う。

もろもろの罪穢れを祓い給い清め給えと切実に願う。

大祓詞のように罪穢れは流れに流されて遥か遠く海の向こうの底に流され、よくわからない異次元に消えてほしく思う。

私のような馬鹿は生きていくのが困難である。頭が良くなってほしいと願うがそうはならずに来たからこれからもそうはなるまい。

空谷子しるす

鏡 赤穂

私は母を伴って春日の若宮社に詣でた。

若宮社の御遷宮が終わって新しい朱色の社に鎮座されたのにご挨拶に伺った。

母の転倒による打撲は軽快してきた。頭の方も今のところは問題ない。

鏡神社と申すのは藤原広嗣公を祀る社にして春日の社家が個人的な願いを祈ることがあると聞く。

鏡社は奈良の高畑、新薬師寺のとなりにあり。高畑は春日の社家がもともと住まいした土地で、いまは高級住宅街である。

藤原広嗣公は奈良の都を乱した(と藤原氏からは捉えられている)吉備真備と玄昉と争い、却って朝敵となり処罰された男である。奈良の都には広嗣公の怨霊や玄昉の四散した遺体にまつわる話が残っている。広嗣公亡き後、筑紫に左遷された玄昉を雲の中から広嗣公の霊が現れて掴みあげ、四肢と頭部をばらばらにして奈良の都にばら撒いた。頭は頭塔、腕は肘塚、眉と目は眉目塚、胴は胴塚に埋まったという。真偽は知らない。

時代はいつも分からない。人と人の争いはわからない。なぜ正しいと思われることが虐げられるのかわからない。力のみの世の中だろうか。弱い人間は生きる甲斐がないのだろうか。

慣れぬ医者をしている私はどう生きたらよいか。

同期の研修医に劣る私は二年目にあるまじき低能力なのか。

赤穂神社は鏡神社から西に百メートル程度のところにまします。

昔祭りの際に赤丹穂を吊り下げたから赤穂と言うらしい。赤丹穂は収穫された黄金の稲穂のことである。

天武天皇の娘と夫人を葬った土地という伝説がある。

高畑は秋の空だ。

私は奈良に不要な人間である。

奈良は私のふるさとではない。

私は脆弱で鷹揚な性格だったが、さまざまなことがあって医者となっている。慣れないことをしている。

自分の趣味や創意を出だして暮らせたらよいのだろうがそうはならん。神様が何を考えておられるかはわからないが今後いよいよ苦しみがやってくる。

空谷子しるす

覚書9

そんなあなたが、すとれいと、というチームにいるっていいうのは変な話ね、と女は言った。

そもそもヘテロをストレートということ自体がおかしいでしょ、私はこれでストレートよ、と男は言った。

なんで同性愛者だけ同性愛者と名乗らないといけないのよ、あんたは自分が異性愛者ですって言うの、と続けた。

言わないわね。なるほど、あなたはすとれいとなわけだ。

そういうことよ。どこかにいい男いないかしら。

どんな男がタイプなの。

やっぱり身体の相性よね。

まず寝てから始まるってとこあるよね。

そうそう。そういうことなのよ。

でも、終わった後に、そのままそばにいて、いつのまにか眠ってる、みたいなこともあるよね。

そう?私は終わった後は一緒には寝たくないわ。私寝相悪いもの。