南宮

人間的な意味が充満している。

私は相変わらず病院内でなにもわからず棒立ちで、中堅の医師や一年目の優秀な研修医から見下されている。

一年目の医師たちは器用で人付き合いもよくさまざまな社会基盤を作り上げていく。それは鮭の遡上やかっこうの托卵のような本能的な仕草で、幼い頃から続けてきた成功の道筋を今もなぞっているかのようだ。

幼い頃からといえば私もまた幼い頃から変わっていない。人から見下され、能力がないので何をすべきかがいつも見えない。目に霧がかかったようにぼんやりしている。あまりに何もできないから自分が生きていても仕方なく思える。

人間的な意味が私の頭の中に充満している。私は人間的な世の中に適応できていない。だからといってどこかに私が適応できる場所があるわけではない。神社も本屋も行くだけなら自由だがその中で私は仕事ができないだろう。

南宮大社は美濃の一宮で鉄の神様を祀る。

南宮にお参りしたのは随分前で今年の春ごろだったろうか。なんだかよくわからないが裏手の南宮山にも登拝した覚えがある。

特に南宮大社にこだわる意図はないのだが文章の主題を医療の言葉にしたくなかった。なんだか癪なのだ。私はいよいよ「医療」とか「医者」とかが嫌いになってきた。しかしながら医療は好むのである。なんとか助けになる手立てを知りたいと思う。しかしいわゆるガイドラインや教科書を見ても何をどうしたらよいかわからない。自分の知能の低さが嫌になる。

私は医療現場に向いていないのか、そもそも能力が低くて複雑な仕事に向かないのか、年季でなんとかなる問題なのか、私には何もわからない。

人間的な意味が充満している。その人間的な意味は時代や空間によって異なる。

私は人間はこの上なく好ましく思う。しかし私は人間を心底嫌う。

もろもろの罪穢れを祓い給い清め給えと切実に願う。

大祓詞のように罪穢れは流れに流されて遥か遠く海の向こうの底に流され、よくわからない異次元に消えてほしく思う。

私のような馬鹿は生きていくのが困難である。頭が良くなってほしいと願うがそうはならずに来たからこれからもそうはなるまい。

空谷子しるす

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