精神科3

精神科はつくづく厭なところだ。患者の方々の話を聞くときの疲労感がすごい。しかも私は技術も知識も無く、勉強する気力も無く、ただ今この時を体験してなにがしかでも残ればそれでいいと思っている。それ以上に気張るのは私には不可能だ。自身の心身の容量では不可能だ。

私がいなくても病棟は続いていく。今日明るい彼らが明日は不機嫌になったり暴れたりめしを食わなくなったりする。自然と同じだが医療者はそうも言ってはおれず対応を迫られる。私は幸いだったのは指導医はガチガチの理論派ではなく、矛盾を知る人間だったことだ。人にはそれぞれいいところがある。そのいいところを見ていきたい。指導医は良い意味でよいかげんだったので私はこそこそ逃げ回るを得、結果的に生き延びた。

人間は善人であり悪人であるを地で行くのが精神科だったように思う。それは人間の自然だが、彼らはさまざまな理由でわがままなのでそれが余計顕著に見える。

ものごとが移りゆく。

エビデンスを重視する先生がいて、「私は不安だから勉強する」と言った。なにかしていないと不安で勉強するのだそうだ。

幼少のころおそらくASDであり、親から注意されることが多かった。学校では周囲から浮いて、「勝たねばならない」と思って勉強に打ち込んだ。それで医学部に来た。いまでもちゃんと臨床やれていると思わないから勉強を沢山する。

「そうしないとすぐに堕落するよ」と彼は言うのだ。

脳波の指導をしてくれると言ったが、私は脳波を読む努力をする体力が尽きていた。

「そんなものだよ。とりまぎれて読めないことはよくある。しかし医者はそうしてすぐダメになるから気をつけなさい」

天地神明にかけて私は私にできる最善は私なりに尽くしている。

「自分なりのやり方」ではなく優秀な人のやり方をまねろとひろゆき氏が動画で言っていた。でもできんものはできんから仕方がない。

私が祈らなければ到底前に進むことも生きることもできんのはそれだ。人のまねもできぬ、自力も乏しいとあれば祈るしかない。

それが正解かどうかは私が死んだ後に誰かが判断してくれたらいい。

空谷子しるす