「あの先生はエビデンスに基づいていない。注意したほうがいい」
ある医師が私の指導医について警告を発した。
私はと言えば、教科書やガイドラインをよく読まないので当該医師が標準治療から逸脱しているかはわからなかった。指導医のうけもつ患者の半分を担当し、彼らの話を聞いて回るので精一杯である。
しかし患者たちは安定を見せた。
私の研修病院ではどつぼにはまるしかなかったような高齢のアルコール依存患者が生き延びて、立って歩いて帰った。
入院したらどのみちある程度落ち着くものだろうか。外来患者のコントロールも悪くないようだった。
統計をとれば医師たちの「優秀さ」は評価できるものだろうか。エビデンスは有用であるが万能ではないことは全ての医師が認識している。その上で、多くの医師はエビデンスに基づかない治療をする医師のことを憎悪し、知識の浅い研修医を侮蔑する。
「エビデンスというのは医者の勝手で、患者からみたらいい医者というのは全く別だ」
箕面の神父は言った。
「自分が信頼できるかどうかだ」
医療界には「やさしいヤブ医者」という言葉がある。
患者にやさしく、信頼されるが、医学が疎漏なので患者を死なせるというのだ。
こうした医師がただのヤブ医者よりもはるかに有害だとされ、平凡な医師たちは日頃己の命を削ってエビデンスを追究する。医学は無限に更新され、常に「お前の治療はエビデンスにもとる」と陰に日向に侮蔑される恐怖と戦わなければならない。
少し話がそれる。
こうした状況下で「頭の悪い奴は医者をやめろ」という言説が現場で飛び交う。無能な人間は有害だと言うわけだ。そこには互いに補い合うといった発想はない。体育会系部活動に表れるような、日本の学校教育における実力至上主義を背景とした無能を排除する構造を私は疑う。それはとても合理的に見えて人間を使い潰す思考である。組織はむしろ脆弱になり、慢性的な人員不足から優秀な人間までも破滅していくことを私は予想する。
話を戻す。
優しいヤブ医者という現象は本当に出現し得るのだろうか。
箕面の神父によればそれは嘘だと言う。
それはそうだ、患者も馬鹿ではないから、おのれに真摯に向き合う医師かどうかは分かる。真摯な医師であれば、真摯さ故に完璧でなくとも最善の治療を彼ないし彼女の力の範囲内で行うはずだ。結果的に現代の標準治療を「すべての点において」遂行することができずとも、患者は不平であろうか。
むしろ知識で武装した上で高慢かつ冷徹な態度を取る医師を患者は納得するだろうか。
私の兄は刑事だ。ある人が死亡し、死体検案書を要することは多い。三次救急病院にかかりつけであった場合、そこの医師はしばしば死体検案書を拒否する。「警察はなにもわかっていない」「私は今忙しいんですがね」彼らの苛烈な職場環境は彼らを残忍な人間にしていく。彼らが愚かだと思う人間たちを見下し、人の死を軽侮し、自らが修羅道を往くことのみに誇りと生き甲斐を感じる。
やむを得ないことだ。理知、合理の修羅道におかれた人間がしだいに修羅に変ずるのは当人の責任ではない。本居宣長は古事記伝の中で理知、合理の精神を「からごころ」と呼び批判した。細かくは覚えていないが、実用性がなく硬直的で戦闘的という欠点があるということだったように思う。実用性の無さについてはどうだかはわからない。西洋科学の理知、合理は患者たちの疾患に一定の有用性があるからだ。しかし理知、合理の追究は人をだんだん戦闘的にする。医療はおのずから人間と向き合う領域である。人間の不合理性も認識せねばならない。理知のみの修羅に果たして人間が診られるだろうか。理知のみの修羅に診てほしくないから「共感と傾聴」などという言葉が昨今の医学教育に頻繁に出現するのではないか。患者も馬鹿ではない。理知の修羅の形式的な共感と傾聴は無価値であることを見抜いている。
しかしながらエビデンスというものの有用さも大切なことは論を俟たない。
できる範囲で私もやろうと思う。
できる範囲でだ。
空谷子しるす