さつき

寮の二階に住む一年目の研修医が彼氏を連れ込んだようだ。床の薄いのを知っているから音をひそめているようだが、そのこそこそいうのがかえってこちらの気が引けるから部屋を出た。

今日は三年目の整形外科の先生と会うのだ。彼は初期研修医のころ、指導医からさんざんな言われようだったようだ。人間的にも彼を嫌う人は少なくなかった。いわゆる「だめレジ」扱いだったのかもしれない。いいところも悪いところもある。明日になったら私も彼のことが嫌いになったり、尊敬したりするかもしれない。先のことはわからない。

週末は当直だった。

今日は明けの明けにあたる。体が重い。

「体力のないやつや知力のないやつは医者じゃないヨ」というような雰囲気をまとった人たちは嫌いである。ちいさいころからスポーツも得意で勉強もそこそこできて、生活の不安もない、異性にもそれなりにもてる人間が苦手である。

レキシの名盤「Vキシ」を聴きながらびわこ線は京都に向かう。近江八幡の麦畑は収穫しつつある。刈り取った後は野焼きをする!近江の山々が青く色づいている。

ふと親父のことを考える。

親父は仏典はなんでも読んで、禅なども組み、インド旅行の際は日本の坊さんたちが経が読めんので代わりに読んだ。密教の行に通じ、金剛不動明王経というのかしらないけど、不動明王の護摩なんかはよく夜中やっていたのだ。火は焚かない。商売が不安だから真言を唱えた。

でもなあ、禅や真言じゃ幸せになれないんだよ!護摩をあげて、自力をつくして神仏を動かそうとするほど親父は殺伐とした。殺伐としたおやじが家の中で暴れたのなんて星の数ほどある。だから兄貴は家を飛び出した。商売も金は入っても親族は乱痴気になって濫費した。親父は糖尿病腎症と心筋梗塞で60でみまかったんだから、彼の人生に意味がないわけではなかったけれど、仏教的な面が彼の魂に安らぎを与えはしなかった。僕は数センチ先の間近でそれを全部見ていたのだからな。

いいか、仏教じゃなんにも救われない、すくなくとも原始仏典の素朴な正解以外はなんの意味もないんだ、それだってただ当たり前のことを言っているだけで、今苦しんでる「病人」にはなんの役にも立ちはしないのだ。病人には常識や理屈より「薬」がいるのだ。あたまの良さなんて糞だよ。

私は親父の60年の人生から仏教はだいたい無駄であることを学んだ。そのうえで、私は仏典を読んだり仏様に手を合わせることをしている。祈り以上に意味のあることは無い。だから仏典も読むし仏様に手を合わせる。

でも世の中には禅に救われる人がいる。

箕面の神父が前に言ってた。道は人それぞれだ。オメガ点って、終着点はひとつだから、気に入ったやり方をしていけばいいのだ。みんな勝手にしたらよいのだ。僕をバカにしてもいい。自分がエラいと思っていい。僕だって人を見下したり自分をもののわかったやつだと自惚れているから。矛盾まみれだ!僕もイヤなやつ、みんなイヤなやつで、みんなイイやつなんだ。だから僕は矛盾があるから祈るしかない…

電車は京都に向かって走り続けるから本当にいいものだ。ごちゃごちゃ考えていたって動いてくれるから。僕の考えはいつも同じところを巡っている。これが前に進むときが来てほしい気もする。素敵な彼女ができたら進むかもしれない!もちろんそんなことはないことは知っている。

くだらなくない人間になりたい。「くだる」人間になりたい。おれは何のために生きているのだろう。おれのことを褒めたり、認めてくれる人がいる。うれしいけど理由がわからない。おれのことを嫌ったり、バカにしたりする人が大勢いる。理由はわかるし、納得するけど、腹がたってしかたない。妻もいない。子どももいない。うまいものを食っても、酒をのんでもいっときのことである。そのいっときをちゃんと楽しめたらこんなに空しくないのか。人生が楽しいって、たとえば良寛さんや白隠禅師は生きてて楽しかったのかな。いま生きていたら、有給とって会いに行きたかったよ。新幹線に乗ってな。

世間虚仮、唯仏是真というのは正しい。祈りと善以外に価値のあることなどない。

さつきがまだ咲いてるから五月だなあと思う。五月の光は明るいよ。みんな幸せでいてほしい。僕も含めて。これは本心だ。

空谷子しるす