忙しい当直を終え、ビールを飲んでいます。
当直の後のこの高揚をおさめるには飲む他ありません。
昨日も印象深いエピソードがありました。
あるおじいさんがショック状態(循環不全)にあるが、その原因が分からないと日勤帯から引き継がれました。
間質性肺炎という病気がもともとあり、ステロイドというお薬が減量されていたことから、残る原因として副腎不全が疑わしい、と申し送りを受けました。
しかし、ステロイドの漸減はゆるやかなものであり、副腎不全をきたすペースとは思えませんでした。
加えて、血液検査では低Na高Kや低血糖といった所見はみられませんでした。
ショックのよくある原因として、敗血症を伴う感染症がすぐに想起されますが、四肢は冷たく、好中球の左方移動も見られません。
心電図は心筋梗塞のようではありません。
レントゲンでは肺炎の陰影に変化はなく、気胸だとか縦隔の拡大もありませんでした。
心臓の超音波検査では下大静脈はぺこぺこに虚脱しており、左室にはkissing signが見られました。
血を吐いたり、血を下したりといった病歴はなく、元々腹部大動脈瘤がありますが、超音波検査では腹水もみられませんでした。
大血管や心臓を観察するにhypovolemiaと思われましたが、生理食塩水を1000ml以上負荷しても血圧は回復していませんでした。
なんともヌメっとしたショックに、これは血管系だろう。早くCTで評価したい。しかし、血圧が70前後をふらふらしてERから移動できない、どうしたものかとヤキモキしていました。
このように奮闘しながら、なんとかCT撮影にこぎつけ、やはり元々もっていた腹部大動脈瘤が破裂していることを見出しました。
しかし、肺の悪いおじいさんは手術に耐えられる状態ではありませんでした。
元々お腹に抱えていた時限爆弾が破裂してしまったのです。
もはやフェンタニルという医療用麻薬で痛みを緩和する他ありませんでした。
結局、そのおじいさんはERにいらっしゃって、5時間くらいで亡くなりました。
診察中は家族を入室させることはできないことが多いです。
特にこのおじいさんのように、急変する可能性がある患者さんの場合には。
僕はなんとか方向性を定めて、長年寄り添った老妻を呼び入れ、2人が言葉を交わす機会を設けることができました。
振り返るにそれはギリギリでした。
最期には妻、中年に達した息子・娘、小学生や中学生と思われる孫達に取り囲まれながら、息を引き取る手引きをしました。
我ながら少し誇らしいお看取りでした。
忙しいERでお看取りをするというのは実は難しいです。
なにせ、(予定で入院する緩和ケア病棟などと違い)ERに受診したわけですから、本人にとっても、家族にとっても唐突にことが起きたわけです。
そして僕によって、まもなくご老人は死ぬこととなる、手の施しようがないと、突如告知されます。
僕はクリスチャンではないんですが、
高校がカトリックの高校でして、ある司祭に僕は発見され、卒業後も教育を受けました。
さまざまな書物とさまざまな人を紹介され、僕の世界は豊かになりました。
時に自力ではおよそ解決できなかったであろう知恵も授かりました。
僕は、神なき世に、司祭的機能をどのように担保できるか、
つまり、彼のようになりたい、という想いがあります。
医療者は宗教者と同様、生と死に携わる数少ない職種の一つです。
僕は昨日、あの激務の最中に、おじいさんが数時間以内にこの世を辞去することを見てとり、家族に告げました。
宗教者にもできない、医学的判断に基づいた宗教的支援ができる類い稀ないタイミングです。
ERでは患者さんと、その家族に関わらないで済ませるための弁解がたくさんあります。
まず、忙しい。
他に死にそうな人を救命しなければいけない、あの患者を待たせている、入院が必要と判断した患者のもろもろの同意書を得なければならない、またホットラインが鳴った、などと、文字通り忙殺されています。
あの時の僕も他に重篤な患者を診ていました。
原因不明の意識障害でけいれんが止まらない高齢者です。
その他軽症・中等症の患者もいました。
そのおじいさんの脈がのびはじめたと看護師より聞いた時、
忙殺されていた僕は、一瞬、ああそうですかと流しかけた。
それは10分だかそれくらいで心停止をきたす医学的サインです。
忙しい医療者にとって、死の間際の徐脈というのは、心停止手前を示す一兆候にすぎないのです。
しかし、ほぼ同時に、個室の中で大家族が旅立たんとするおじいさんを取り囲んでいるのを窓越しに僕は見た。
一見して、そこに緊張があった。
その緊張が私の精神に反響した。
彼らが、医学的な導きなしには、呼吸がやがて止まりゆく爺さんをみて、受け入れるということは極めて難しいだろうということがすぐに分かりました。
医療者は、どのように患者がひたひたと死に向かっているのか、それを知っています。
終末期に起こる嵐のような「こと」は、「もの」としての医学的な言葉が求められていました。
僕は、家族のそばに侍って、案内しなければならないと思い立ちました。
先般ご紹介した『複雑性PTSDとは何か』という対談集の中で、神田橋先生が緩和ケアについて僕に教えていました。
いまわの際の時には、戸惑う家族に患者の額を撫でさせて別れの支援をした方がよい、と。
これまでも臨終の際のさよならの支援に僕はこだわってきました。
7歳の男児がお家で亡くなった時、尻込みする兄の手をとって、頑張ったなと手を握ってやるよう導いたことがあります。
あの時も終末期の嵐の中、全く動物的勘でそのような僕はそのような援助を思い立ち行動に移しました。
あの僕の援助に、兄の手をとって、旅立った瞬間の弟の手をとるよう促したことに、医学的に肯定的な意味はあるのだろうか、
とその後もことあるごとに思い出していました。
ですので、神田橋先生の言葉は、僕の過去の(トラウマというともちろん大袈裟ですし、現代的すぎますが)ふるまいを肯定する役割を持ち、すぐに僕の心に響きました。
昨日はそれをすぐに実践しました。
小学生と中学生の孫は、死体となりつつある愛すべきおじいさんに近づくことを躊躇っていました。
僕は、家族皆に、いま耳は聞こえているから、ありがとうと言ったらいい、ちゃんと聞こえているからね、と支援しました。
皆、泣きながら、応じました。
手をとって頭も撫でてあげたらいい、ちゃんと聞こえてるからと。
そうか、そういうことなんだ、という具合に僕の言葉を受けていました。
孫もみな、そのようにしました。
下顎呼吸をとらえて、この呼吸は大丈夫ですか、と問う息子に、
これはあちらの世界に旅立つ準備をしている呼吸ですよ。大丈夫ですよ、みんなに見守られながら穏やかにみんなを感じていますよ、と答えました。
あの場で起きた「こと」は、僕がこのような言葉という「もの」で切り取るよりも、豊かななにかがありました。
特にあの場の老夫婦の間におきていた交流を僕はうまく描くことができない。
しかし、僕の試みた「もの」化は、「こと」の事後的な記述には適切でなくとも、あの時あの場所で緊張状態のなか皆がさまよっている「こと」をある程度緩和する機能は果たしたようです。
喪の作業では、やはり泣いた方がよいと僕は思います。
涙は精神が絶えざる循環の中にある根拠です。
泣けないことは精神の循環不全を示します。
涙として溢れ出ないと緊張した高圧状態がその後も続きます。
緊張は人間のふるまいを一へと閉じ込めます。
それはデタラメも遊びも笑いもない冷たい不自由な世界です。
このような援助は現代においては医療者にしかできないことです。
そして、それをしないですませる弁解が医療者にはたくさんあります。特に忙しいERにおいては。
僕は(今回おそらくたまたま)弁解せずに、彼らを導くことができた。
こういうことをするために僕は医者になったのだと、今は振り返る余裕があります。
昨日起きたことをすでに僕は美化し、都合のいいように歴史として記述していますが、後悔が残ることもあります。
もっと早く診断できればいずれにせよ死を避けられなかったおじいさんと家族の時間を少しでも増やすことができたかもしれない。
そのことを一緒に関わってくださった看護師さんにこぼすと、
でももしそうなら臨終の前に入院病棟に移動してしまって、あのように家族全体で見送るということはできなかったと思いますよ。だから、診断が遅れてよかったんです。
と励ましてくれました。
すみません、直明けにたかまった交感神経をアルコールで鎮めているもんで、筆が走ってだらだらと自画自賛するという恥ずかしいことをしています。
しかし、こういった人々の魂の緊張を和らげ、生じる心的外傷と喪失をどのようにケアするか、それが僕の目指す全てです。
素寒