熊楠

白浜の南方熊楠記念館に行ったのである。

完全に無計画であった。

私は歩いて駅まで行き、電車に乗り、白浜を目指した。

南方熊楠記念館は番所山という岬の先端にある。

南方熊楠の直筆の書写やイラスト、Natureに掲載された論文、標本、粘菌の数々が展示されている。彼の生涯Natureに掲載された論文は51篇に及ぶ。

彼はさまざまな本を書き写すことで覚えた。

8歳のころから和漢三才図会を本屋で見ては自宅で紙に書き出したのは有名な話である。

東大予備門を辞め、渡米し、さらに渡英するなかで様々な書籍を書き写し、覚え、野山に出て標本採集し続けた。

イギリスから帰郷した後は那智や熊野の山でほぼ全裸で粘菌の採取をした。

彼の興味関心は人間を含めた自然全体に及んでいたのだろう。

彼は実体を眺める方が好きで、机の学問は苦手であった。幼少のころから山に入り仲間からは天狗と呼ばれた。学業成績はほぼ全ての科目で極めて悪かった。東大にしても代数や体育が嫌で、標本採集と図書館ばかり行くので出席もせず、代数で落第したため辞めたのであった。

エコロジーという言葉を最初期に用いた日本人でもある。人間を含めたあらゆる生物が、どれを欠いても自然は成り立たぬと言うのだ。したがって明治政府の行なった神社合祀には烈火のように反対した。鎮守の森を伐採することで貴重な生物たちが失われる。神々を損ない、侮辱する。人々が神々と紡いだ物語や歴史が消える。鎮守の森の材木で儲けることを考えていた外道の小人に対して彼は激烈に怒ったのだ。

彼はさまざまな知識を知る以上に、それらを「有機的につないで」新しい結論を導くことができた。しかもその結論に卑しい名利の気持ちや他者を蹴落とさんとする戦闘心が無く、天下万人の為は言うに及ばず、もちろん己の為であり、近所の飲み友達や、小さいこども、馴染みの芸妓、遠方の知己、身寄りのない弱った人々の為であった。アメリカ時代の友人、孫文もその一人である。あちこち飲み歩いては猥談をし、銭湯で人々に世界中の面白い話をして、また人々から民話や生活の話を面白く聞いた。下ねたも天空の星々も宇宙の実在であることを彼はよく知っていた。彼は真の天才の一人である。それは空海の描いたホロニックな世界と似る。熊野の神々の大きな世界に通う。

番所山から見た太平洋はどうだ!南紀の亜熱帯性の植生、照葉樹林、温順な気候の中に私は立ち。眼下に広がる太平洋は限りなく美しいのだ。

ああ私たちは何をすべきだろうか。自然の探究をすべきだ。しかし物質的で名利的で戦闘的で打算的で澄ました論理による研究というもの。そうした研究をすべきだろうか。違う。「研究者」たちには知能はあっても軸が無い。南方熊楠の中に建立された無前提の精神の「軸」がない。同じ自然の探究でも南方熊楠のような情熱と精神の「軸」があれば、知能が高いだけの冷血漢たちの中でも生き延び、導かれる。本当の意味での自然の探究となる。

南方熊楠は私たちの先達としてふさわしい。

見よ。熊野の杜は彼を産んだのだ。

追記 彼の死後解剖されて取り出された脳髄は決して大阪大学ではなく 日本国内なら少なくとも京都大学か東京大学に収められるべきだろう

空谷子しるす