「オメガ点」ということを彼は言うのである。
「オメガ点」というのはティヤール・ド・シャルダンの言葉であって、私もよくわからぬけれど、「神」と同義であろうか。
ティヤール・ド・シャルダンの著作を真剣にまだ読まぬからよくわからぬ。
さまざまなことがらは究極すると「オメガ点」に至るというのだ。
「僕はティヤール・ド・シャルダンを読まなかったら神父になるのやめてたと思うわ」と彼は言うのだ。
「オメガ点に至るのはなんでもええねん。キリストでも、念仏でも、禅でもいい。神道でもええと思う」
ティヤール・ド・シャルダンはオメガ点は「人間外」の領域だから、人間は漸近的にオメガ点に近づくのみでオメガ点になることはできぬという。その不可能を可能にするには「愛」が不可欠だとそう書いてある。
なぜ愛なのかはわからぬ。本にそう書いてあるのだが、記述をあちこち眺め回したがわからなかった。
「禅は自力の宗教でキリスト教は他力の宗教ですね」
と私は問うた。
「キリスト者のあなたが禅を認めるのは不思議な気もします」
「だからオメガ点なんや」
と神父は穏やかである。
「自力が合う人は禅をやればいい。他力がいい人は念仏でもキリスト教でもいい。行き着くところは同じ。オメガ点や」
神父の飄逸さは群を抜く。
彼の言葉は矛盾にまみれているようでありながら極めて普通であり、毒のようでいながら水のようにすんなりと腑に落ちる。居心地の悪さがなにもないので、朝夕の風のようで不思議この上がない。
「ティヤールドシャルダンは愛が不可欠だと言っています」
と私はまた問うた。
「神父は神様の愛を感じますか?」
神父は日本酒をのみながら何も変わらないのである。
「いつも感じるということはないな」
居酒屋の焼き鳥と日本酒と黒い木の卓と電灯の灯りが我々を灯している。
キリストの話をする席の中にキリストは同席していると福音書に書いてあったことを思う。
「でも神様が自分を愛していることを知っていたらいいんちゃう?」
神父はにこりと笑う。
空谷子しるす