いきしちに

最近
と言っても、ここ数日の話である

いきしちに
というフレーズが突如私の脳髄に出来した
いきしちに、いきしちに、いきしちにひみいりい
リフレインが止まらない
いきしちに、いきしちに
皆さんもご一緒に

そうだ、そうだ、
うくすつぬ、おこそとの
おっと、忘れていた
えけせてね

子供と言葉でじゃれていて出てきたのか
あるいは分析的母子関係に由来するものなのか分からない
それにしても、小学校だろうか、変なことを覚えさせられたものだ

学校の勉強は役に立たない、などと言う者がいる
しかし、私はそんなことは信じない
唾棄すべき弱者の強弁だ
国語にしても、数学、理科にしても、およそ学校で習ったあらゆる科目が役に立っていると実感する(しかし、その大半が忘却の彼方に!)

それにしても、である
いきしちに、うくすつぬ、えけせてね
と繰り返し暗唱させることに、教育的意義があるのだろうか・・・

ふむ、
暗唱は大事だ
暗唱こそが国語の基礎であり、国語こそ精神の涵養に不可欠だ
と私も思う

それにしても、である
なんだって、いきしちに・・・・
なるほど、世界史でも横軸的俯瞰は重要だ
1920年ごろ
第一次世界大戦を終え、日本は山東省権益を譲渡され抗日の契機となった
ロシアでは社会主義国家が生まれ、スターリンがソ連共産党書記長となった
中国では孫文が共産主義に傾き始めていた
私の祖父はその頃に生まれたのだろう
不勉強な私にはこれら横軸をうまく接続できない
今も昔も横軸的俯瞰は苦手である

しかし、
いきしちに・・・
この横軸に込められたる意義やいかん・・・

などと理性的に振り返っても栓のないことだろう
子供の学びを、わたしが今同様に楽しめるかどうか
足し算を覚えたての4歳の娘は3+4までは即答できても、4+5は数えなければ答えられない
4+5を数える娘の楽しみを、今の私が楽しむことは無い
わたしは計算できるようになった
さりとてそれで何を得たろう、何を見ているだろう
わたしは走ることを覚え、樹肌を見失った

素寒