一寸先は闇というがこれは当たり前のことであって、先のことなど誰もわからぬのである。
先のことはわからぬと言ってしまえばしかし人間社会は成り立たぬから、どうしてもわかる振りをしなければならぬ。あれをする、これをする、「ふつう」ならこれだけのことができる筈だ、してもらわねば困るという風に、世間の平均から推計をつけて、そうして諸予算を組んでいくという次第だ。この次第はそれぞれの仕事、学業、界隈で異なるのであって、難しいのでなかなか私は弁えるに至らぬ。
世の中に優れるということがある。
なにかがよくできるということであるが、なにかよほど変わったこと、たとえばとんでもない良い絵を描くとか、学問上の思いもよらない大発見をするとか、そんな突拍子無いこと以外は、優れるということは本来せねばならんことや期待されたことをよくこなし、その延長も能くすることを言うようだ。
つまり未来を勘定にいれて、その勘定を満たした上で、さらに余分な利益まで出してくれるというのが優れるということかと思う。
誰かが優れていれば人間はみな助かるのである。だからみんな優れる人を褒めるし、優れる人に応分かそれ以上の待遇を与えるわけだ。人間はみな褒められたいし、物欲があったり、万人の福利になりたかったり、自分が人間の間で生きていてよいというお墨付きが欲しかったりするから、どうしても優れたくなる。それでどうしたら優れられるかを考えるのに必死になり、地上を駆け回るのは自然なことかもしれぬ。
イタリアの片田舎、サンジョバンニロトンドの聖人ピオ神父は本当か知らぬがよく人のことを見抜いた。
ある若い神父が、これからローマに勉学に行く。遠くに行くのだから、しばらくピオ殿に会うわけに参らぬから、別れの挨拶に来たと言うたら、ピオ神父はわなわな震えた。
「勉強!それよりあなたは自らの命のことを考えなさい、命が失われたなら、勉強など…」
果たしてその若い神父はすぐ後に頓死した。本当は彼は勉強をしている場合ではなかったのであった。ローマなどではない、本当にこれから自らが行くことになる所のことを考えるべきであった。正確なところは忘れたが、こんなような話であった。
未来のことなど、私はなにもわからぬのである。
それはほんのちょっとのこともわからぬのであって、一寸先は闇なのである。
時間の管理といい、予定の管理といい、自らを研鑽して成長せしむるという。よいことである。
しかし一切は、私はどうしても神様といいたくなるから(べつに神社でも如来でも天の父上でもそこは各人の自由である)、神様からの賜り物と申したくなる。
むろん私もかろうじて人間だから、社会的の事柄はちからの及ぶ限り守るけれども、この一寸先は闇という感覚は自らの根底にあって真実離れぬ。この今、この今をちからの限り懸命するより私にできることは無い。
それが良いとか悪いとか、いずれはこうならねばならんとか、こうせねばならんとか、
さまざまなことがあっても今を生きるよりほかに何もできんのが真実である。
なんぼ経済が卓越しても本当は未来を算盤できんのが真実である。
今、今、今であって、計算できぬ事柄は、祈り、祈り、祈って求めるより他にあるまいというのが、才覚の無い私のような人間の生きる道かなと今の私は考えている。
空谷子しるす