いよいよ本丸に攻め入った
そして「その時」もまた近づいている
私は諦めていた。彼を在宅で看取るということを。
そこには非常に強固な越えられぬ岩盤が存在していた。
さよならは言いようもなかった。
しかし今や機はあるポイントを目指して熟しつつある。
私はこの事態を予想していなかった。最終的に彼を病院に送らずに在宅で看取るということを。
あのそびえる岩盤を目前に、それは単に私の願望であり、ロマンに過ぎないと思われた。
そのように私は私を諌めていた。

しかし、事実は異なるように分泌されつつある。
1週間前に始めた点滴は、今や動けなくなった彼には苦痛となっている。
高エネルギーの点滴は彼と家族に希望の灯火であった。
今やその点滴が彼の苦しみの原因になっていることを彼は訴え、家族はそれを理解しつつある。

彼は頑なに進軍を続けた。常にその意志を周囲に示していた。
彼のその不屈の意志を前に、私は焦燥感にかられていた。
私は軍師として死の行軍に役割を得た。
千の軍略をめぐらし、あらゆる看守の目を盗んだ。
あろうことか、私は現実に彼の主治医になってしまった!

そして、今、ようやくあの関所にやってきた。
ここでは膨大なエネルギーが注がれ、事態が混沌とし、天がぐるぐると回る。
私は在宅医としてこれまでに天がぐるぐると回るその様を何度も目撃してきた。
てこはこの関所にこそ出来する。
今や私にはてこの支点が見える。

私は軍師としてこの関所は通れないと思っていた。
その前に在宅療養を断念し病院での治療になるだろう、と思っていた。
彼と家族の進軍の意志と、さらにやっかいな父親という越えられぬ岩盤が明瞭に私の密かな、しかし重要な軍略を阻んでいた。

今この関所で、私の視界に、てこの支点が現れた。
五里にもわたる霧が今晴れつつある。
ギアがチェンジされつつある
キュアからケアへ
進軍から退軍へ
足し算から引き算へ
言えるはずのない、さよならが発語されようとしている
ぐるぐると天が回り始め、新たな世界線が引かれつつある。
私はそれを凝視している。

この邂逅をどう考えればよいのか
われわれはなぜ出会ったのか
私が彼をヨット部に引き込んだのはなぜなか
私の魂が彼の魂と濃密に交流するに至ったのはなぜか
私がこの時にここに在籍しているのはなぜなか

私情を挟みすぎだと?
私がいつ私情を挟んだいうのだ
ニーズを整理しているだけのこと
言語による情報整理をしているにすぎぬ
それ以上のことができればどれだけよいか!

私情を挟めばよいだと?
私がいつ私情を挟まなかったと言うのだ
いつだって彼を思わないことはない
私のくだらぬ思いで苦しみが和らぐのならどれだけよいか!

私は彼の家族だ
私はよく知っている、彼の家族が生来度し難い存在であることを
しかし、私は彼の家族だ
私の前で彼の家族を中傷するのは看過できない
話せばわかることなのだ
焦慮はいけない
医は仁術ではなかったか
我々には沈黙もあれば言葉もある

彼はどこにいて何をみているのか
もとより肉体は精神の牢獄
文字通り牢獄として病んだ肉体の、その機能がいよいよ強度を増している
私とて牢獄の住人
あらゆる看守の目を盗み、しばし問いかけ、しばし絶句す
私の言葉はなにに向かっているのか
彼はなにをまなざしているのか
牢獄の終わりはどこにあるのか