循環器

ある研修医は言った。

「気にしすぎなんだよ。『すみません』で流していけばいいじゃない」

またある研修医は言った。

「できるようになったことに目を向けた方が楽しいですよ」

循環器は6,7月の2か月だった。

指導医にひたすら金魚の糞をするという状態であって、カルテのことや採血、カテーテル治療のシース組みなどを教わった。教わったのであったが、物分かりの悪い私は何度も同じしくじりをした。

私は相変わらず病棟に行って患者方の話を聞く。

驚くべきことに、この6,7月は「ふつうの心不全」や「ふつうの不整脈」は来ず、私が見たのは正体不明の重症肺炎、正体不明の全身疼痛と低ナトリウム、プロテインS欠乏症などであった。

私は無能感にかられる。

私はたしかに疲れている。

来月からの消化器内科はより大変らしいから、これは仕方ないことである。

空谷子しるす

ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来』

ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来』

  久しぶりに実家へ帰ってきた。前回来たのはもう一年以上前になる。玄関にはピンクの柵が立てかけられており、来客は柵を跨がないと入れなくなっている。それはもう十年以上も前からずっとおそらくそのままだった。犬が二匹おり、柵をしておかないと庭に放したときに、玄関を抜けて全速力で駆け出してしまうから。家の前には田園が広がっており、1kmくらい先までは見渡せるかもしれない。犬が逃げたらすぐに見つかることが多いが、田んぼの反対側はすぐに道路になっているため、反対側へ向かうとはねられてしまう危険も高い。犬がまだ小さい頃はよく脱走して、皆で探し回ることもあった。最近そういう話は聞かない。もともと三匹だったが、昨年白いトイプードルが老衰でなくなり、茶色いトイプードル二匹となった。

  来客はピンクの柵を越えるか、横の駐車場から中に入るしかない。内玄関までは石畳となっており、左側には中庭のような空間がある。芝が生い茂って、ずっと立ち入ることも難しいくらいだったが最近人工芝をそこに被せてゴルフの練習場にしたらしい。球を数メートル先の的へあてる程度の簡素なものだが。

  次女が来るのは初めてだった。母を見ると辛そうな顔をして泣き妻を手探りで求めた。長女は初めてではないが、だいぶ久しぶりのことでかしこまっていた。長女は4歳、次女は1歳になる。ここへ来る数日前から長女は妻の実家へ滞在していた。妻の母が京都まで迎えに来て新幹線で連れて帰ったのだった。長女はホームシックにかかることもなく毎日楽しく過ごしていたようだった。妻の妹の子供が二人おり、プールをしたり自転車に乗ったりして遊んでいた。長女はまだ自転車には乗れなかったが交通公園で練習して補助輪付きだが一日で乗れるようになったとのことだった。

  私の実家に来た長女は姪っ子と別れがたかったようで、彼女のところへ帰りたいと泣きながら訴えた。私の実家にもあと2、3日で姉の子供たちが来ることになっていたが、今は周りも大人だけということもあり姉の子供たちが来るまでは子供たちと妻は妻の実家で過ごすことになった。

  ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来』はまだ予約の段階で姉に教えてもらってamazonで購入した。車の通勤中に2/3くらいは読んでいたが、残りを一人になった時間で読むこととなった。ピーターはALSに罹患した。経歴や粗筋は調べたらすぐに出てくると思うので割愛する。端的に言うと、ピーターは人間とAIとの融合を目指している。人間としてのピーター、つまりピーター1.0からサイボーグとしてのピーター2.0への変容を遂げること、そして人間の生物としてのピーターの死後はAIのピーター3.0として生き延びること。2.0は現実の世界を生きながら、仮想現実としての世界も同時にVRのゴーグルをつけることで生きることができる。そこでは五体満足で魔法さえも使うことができる。2.0はまた現実の世界に遍在するようになる。生物としてのピーターがどこにいようと、2.0は講演会を複数の場所で同時に別の言語で行い、存在することができる。AIはピーターと融合しているので、ピーターというアルゴリズムを学習してどこにでも同時に存在し応答できるようになるというわけだろう。

  私はまだ観たことがないがAIとかバーチャルリアリティといえば映画のマトリックスを想起する方もいるだろうか。私はこういう話を聞くとつい90年代後半に放映されたアニメ『serial experiments lain』(1998年)を思い出す。レインは現実の世界とワイヤードというコンピュータネットワークの世界に遍在する。現実の世界と仮想現実を往来できるのはそもそも人間が発する電磁気によりコンピュータの端末として中継となれるからである云々といった話だったと思うが、すでに子供の頃の記憶なので曖昧である。

  ピーター2.0が目指しているのはレインなのだろうか。AIの予測変換の究極は意識の共有だろう。それが伝達速度としては原理的に最も速い。Wired Brainについてはジジェクも言及している。その是非はわからないというか、機械と脳を接続することは今後何かしらの形で可能になるだろうしその流れを止めることもできないだろう。そしてWired BrainなりAIと人間/脳の融合が普及すれば確実に倫理の再構築も求められる。というよりも今からすでにその時に備えておく必要があるだろう。

  すでに現実となる前からピーター2.0を受け入れる下地はできていた。Googleに代表されるインターネットサービスはモニタリングし個々を繋ぐことで自他の境界や絶対的他者の存在を不明瞭なものとし、レインの世界観の基底にある集合的無意識とかユング的世界観に傾斜していくポテンシャルがある。

  問題はそうしたときに如何に他者性や責任を担保していくか、ということだろうか。ピーター2.0や3.0は何も新しい問題ではない。人と簡単に繋がることができるようになったということは、繋がらずにおくことが難しくなったということで、卑近な例では携帯電話が普及したおかげで仕事がサボりづらくなった、もっと遡れば車が普及したおかげで労働に従事する時間が増えてしまったということでもある。テクノロジーと接続は切っても切れない関係にあるかのようだが、切断のテクノロジーのことも今後はもっと考えていく必要があるだろう。単に個人の選択でtwitterをしないとかfacebookをしないとかいうことではなくテクノロジーの次元で接続解除するということ。

  自宅の本棚にはもう10年以上前に購入した本が無造作に並んでいる。本は色褪せる。中身の問題ではなく、物理的に文字通り色褪せ埃に塗れている。電子書籍やバーチャルリアリティは古くなることができない。

  実家の引き出しに指輪が入っていた。内側の刻印を見るともうすっかり忘れていたが、2007年に作製されたものらしい。もともとシルバーのリングだったのだろうが、今では錆び付いて黒々としている。子供たちはまだ帰ってこない。体操教室に連れて行ってもらっているらしい。妻の電話の向こうで笛の音と子供たちの声が聞こえる。犬はいつものようにリビングのソファでうたた寝をしている。

ある老師の話

その神父は箕面の田舎のおじいさんであって金勘定が好きだというのだ。

「そら楽しみなんてほかにあらへんやん」といいながらヒヒヒと笑うのだ。とんでもない坊さんである。

彼が中宮寺の話をした。

「昔中宮寺に若い男が来たんよ。その男は日がな一日仏さんの前に座って動かんかった」

ワインをのみながら箕面のオッチャンは語る。

「夕方になって小僧さんが門を閉めないとならんのにその男はまだおる。日が傾いていよいよ日没と言う時になってもまだおる。しかたなくもう時間ですと言うと、男はようやく立ち上がって帰っていった。その翌日男は出征して戦地から帰ってこんかった」

神父は赤ワインを飲む。店の電灯がワインの面に映ってきらきらしている。

「僕もややこしいことや嫌なことがあったら中宮寺の仏さんのところに行くんよ」

私の出身は奈良であるから斑鳩はよく知っている。翌日私は法隆寺に向かった。

中宮寺は法隆寺のすぐ隣にあるから、法隆寺の前に車を停めれば歩いていける。法隆寺の拝観料は1500円と極めて高いからそれは入らずに、土塀と石畳の道を中宮寺までてくてく歩く。

中宮寺は尼寺である。

皇室の女性が出家するいわゆる門跡寺院であって、ちいさな寺は全体的に風雅な趣がある。中宮寺の拝観料は600円だ。常識的と言えよう。

本堂は山吹の花に囲まれた池に浮かんでいる。

その中に如意輪観音半跏思惟像がおわします。

蝉が鳴いているのは梅雨が明けたのであった。

池の傍で亀が甲羅干しをしている。

今日はよく晴れた。暑い中に風が吹き抜ける。奈良盆地特有の焦熱が心地よくて助かる。

漆黒の御仏は微妙な表情で衆生を救う手段を考えている。

人間一切が救われることは無いかもしらんが、考え祈ることは…

他人の痛みを取れずとも、我もまた悩み痛むならば…

斑鳩は晴れている。小宇宙のようなきれいな寺と汚くて埃っぽい地べたが混ざる。

野の花が咲いている。

私は腹が減ったから街に向かった。

空谷子しるす

患者さんのことなど4

「兄はな、学校に通っている時に汽車に乗ってたんやけどな」

「はい」

「むかしは汽車に人間が乗り切らんので、連結部にぶらさがっていた」

「はい」

「それで兄が通学のときに、連結部にぶらさがっていたら」

「はい」

「すべり落ちて、足が車輪に挟まれたんよ」

「なんと」

「親切な人がいて、兄の傷ついた脚を、履いてた足駄でてこの原理で固定して」

「はい」

「それからリヤカーに乗せて、病院に行ったんよ」

「はい」

「駅からずっと、兄の血が点々と病院までついてね」

「はい」

「私はそのころ××の女学校に通っていたから、知らせを受けて、兄は死ぬんかと思って」

「はい」

「あわてて病院に行った。当時私の家に疎開していたいとこが学校まで来て知らせてくれたんやけど」

「はい」

「病院に行ったら、合羽をひろげた上に兄の脚があって、血の海なんよ」

「はい」

「毎日学校が終わったら、ご飯のお櫃を背負って、防空頭巾を携えて見舞いに行った」

「はい」

「するとB29が飛んできて、私は田んぼのなかに伏せるんよ」

「はい」

「上から見たら丸見えやったろうけどね。田舎やから、爆弾も落とさんと、そのままいってしまう」

「はい」

「そのころは私も少女やからね」

「はい」

「兄を見舞いながら、私は将来看護師になると思ったりもした」

「はい」

「兄が治ったら治ったで、ああ憎たらしい人やとか思って、ふふふ、看護師になろうと思わんくなって」

「ふふ」

「そうやって暮らしてきたから、それは普通のこととは違いますわなあ」

空谷子しるす

男と女とオーマイガ−

5歳娘と

娘:どうして男はおしっこの時、ちんちん拭かなくていいの?
父:うーん・・そういう形やもんなあ・・・
娘:どうして男と女は違うの?
父:うーん・・・
娘:どうして男の子にはおちんちんがあるの?
父:うーん・・・おちんちがあるから男の子なのかなあ・・・うーむ・・
娘:女の子にはおっぱいあるよ?赤ちゃんができたらおっきくなるんだよ
娘:先生に「みんな女の子なのにはたおり上手だね~」って言われたの
父:・・・・
娘:先生に「みんな女の子なのにはたおり上手だね~」って言われたの
父:それでどう思ったの?
娘:オーマイガ-!ってなった
父:・・・・・・そう言われて嫌だった?
娘:嫌じゃないよ

素寒

龍膽寺雄「焼夷弾を浴びたシャボテン」平凡社

褒められぬ。

人から求められぬということはつらいことである。

子供じみた悩みといえばそうだが、人間はすべからく子供じみていることは八十、九十歳の人々を見れば容易に気がつくことだ。

自力でなんとかするというのは虚構である。

虚構であることを若いうちは思わぬから、歳をとったあとに余計に子供じみてくる。

歳をとってから、死ぬ直前に、自力が虚構であることに気づくよりは、若いうちから己の無能に苦しむほうがましである。

己の無能に悩むことは、生まれてからずっと続く生き地獄である。

己の無能によって、まわりに理解されることは無理である。まわりに求められることも無理である。まわりは己の無能を憎み卑しむ。だから己をまわりから自ら截断し、閉じこもり、あほになる。

龍膽寺雄は戦前戦後の作家である。

塗炭の闇のなかにあってサボテンのことばかり考えていた作家である。

文章がうまい。

「仕事という仕事は、––小説書きでも、学問や研究でも、金儲けでも、人間臭さの中でおこなわれる。このようにして世に生きて、自分がはき出すハナ持ちならぬ臭気に自分で背を向けたいからこそ、ひとり静かに植物の一と鉢もいじってみたくなるのだろう」(空想独楽)

大変前向きだ。世間をうっちゃってサボテンを育てることほど前向きなことがあるだろうか!

怠け者の堕落と前向きな行動とは紙一重である。

自力が虚構であることを知るものは道楽に走る。

道楽に真摯になれば道に至る。

道に至れば人間は満足である。

修羅は絶滅せよ。龍膽寺雄に誉れあれ。

道楽を邪魔する魔障は調伏されよ。

空谷子しるす

映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

 映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。

 他者をどう考えるかという問いに対して、三島は「私の大嫌いなサルトル」という言い方をして『存在と無』から最も猥褻なのものは縛られた女の肉体であるという文言を引用し、エロティシズムと暴力の必要性について語っている。ここでいう他者というのは、双数関係にある他者ではなく、大いなる他者であろう。それを三島は天皇という。

 他人を物のように扱うことの誠実さは他人の中に自分を見出さない、他者は自己の鏡ではない、という切断的態度の内にある。サディズムは自分と似た他者を切断する行為によって虚無を回避し大いなる他者を現出させようという涙ぐましい努力である。三島は映画の中でも言っているように、その他者は天皇である必要はなかった。本来的になんでもよいが、卒業式で時計をもらったときの天皇はとてもご立派だった、そういう個人的恩顧が三島にはあった。

 三島の学生への問題提起は、物と持続についてであった。机は本来の使用用途とは別の扱いを受けることがある。たとえばバリケードのように。究極的には何者でもないことは可能なのか、という問いである。革命が本来の使用用途や存在様式から離れることであるとして、それを持続させることは原理的に可能なのか、ということである。成功するかどうかは問題ではないと言ったときに無自覚であるのはどういった点か。それは何者でもないということは不可能であるということだろう。常にすでに、人は何者かになってしまっている。同時に物はある眼差しの中でそれが本来的とよび得るか非本来的とよび得る在り方かどうかによらず何物かであってしまっている。

 学生たちが他者と思しい権力と対峙するなかで、三島の問題意識は他者がいないこと、大いなる他者が不在であるということにあった。だから三島の学生に対する問いは、転覆した先の他者をどう担保するのか、ということでもあっただろう。というより、他者は大なり小なりおらずにはおれないものではあるが、君たちのそれは私が天皇と名指すものに匹敵し得るものなのか、どうなのかということだろう。大澤真幸は『三島由紀夫 ふたつの謎』の中で三島の原点、出発点に「一の内的不可能性」があったということを書いている。少し引用する。

 こんなふうに問いを立ててみよう。もし究極の真実が『豊饒の海』の結末が示唆しているように、容赦のない虚無であるならば、つまり「0(ゼロ)」であるならば、どうして何かが、世界が存在するのか。

 究極の真実は、虚無、つまり「0」とは異なる何かではないか。見まちがうほどによく似てはいるが、「0」とは異なる何かではないか。それを、ここでは「一の内的不可能性」と呼んでおこう。…

 私は学生の頃、戯れに0∞システム(ゼロ無限システム)というものを考えたことがあった。虚無であるところの人と無限大であるところの絶対的存在からキリスト的一が析出し得るという信念に基づく体制をそう呼んでみた。0∞=1は可能性の海であるが、それは幻想に過ぎない。このシステムは人が限りなく0か無限大に近づくことで有1であるところの1を体現できるという信念があって初めて駆動するが、実際にはこの1は遡及的にしか見出されない代物であるが故に不可能である。

 0∞=1の地平で闘っても資本主義やキリスト教は乗り越えられないということをおそらく三島は自覚していた。0∞≠1と否を叩きつける存在を三島は強く求め、その存在として天皇を選んだ、ということではないか。

 三島は自我が極端に肥大し風景の隅々にまでそれが侵食したような小説を書く一方で、自我を極度に希釈させてみせるような試みもする、その所作はゼロと無限の間を焦慮に駆られながら気忙しなく振幅しているようにも見える。

 私たちは常にすでに1であり、そこから逃れることはできない。何ものでもない在り方や何ものでもある在り方を求めることはシステムにとっては織り込み済みの行為であり、それこそが資本主義の糧となっている。私は何ものでもないとか、何ものにでもなり得るという態度は、だから態度として至極「合法的」といえる。三島がいう非合法的暴力は0でもなく無限大でもなく0を反転させた形での無限大でもなく無限大を反転させた形での0でもなく、それらのスペクトラムとは全く無関係に有無を言わさず新たに1を穿つ行為のことではなかったか。それが三島の小説においても実際の行動においても成功しているとは思えないが。

 基礎に立ち返ると、1はやはり穿つものではなくすでに穿たれたものとして立ち現れる。あらゆる、多様な1が可能だが、穿つことはできない。それと知らずに1となっている、活動とはそういうものではないか。1を目指すことはできないし、そもそもその目指す行為は意図せずその人を双数関係へと導いてしまう。

 ジジェクは平等と認識される正義は妬みの上に成り立っているという(スラヴォイ・ジジェク『パンデミック2 COVID-19と失われた時』)。能力に応じて働き、必要に応じて受け取る、ということは平等主義とは異なる。問題なのは序列や格差が自由や平等の名の下にうまれていることだろう。三島は持続を問うていた。それは机をバリケードたらしめる行為者への責任を問うことでもある。たとえば、あなたたちはバリケードであると言った場合、その眼差しが持続しないのであれば机は絶えず名指すものの顔色を伺っていなければならなくなる。持続しないこの暴力は三島の言葉を借りれば合法的な暴力ということになるだろうか。織り込み済みの暴力である。ベンヤミンの説いた神話的暴力(法維持的暴力、法措定的暴力)と神的暴力の分類でいうと、機動隊の暴力は法維持的暴力で学生の暴力は法措定的暴力にあたるだろう。三島はそれとは別の神的暴力を発動させたかった、のではないか。

 それは天皇である必要はなかったと三島は言う。私は近所のおじさんでもNPOでもいいと考えている。おじさんだろうがNPOだろうが気づいたら1になっている、ということがあるだろう。 (2021.06.14)

カブトムシ

カブトムシが出ちゃうからお片付けしないとと4歳の長女が言った。

床をはってるところを長女が見つけてベッドの部屋からおもちゃの方に行って見失ってベッドの部屋で発見したところを妻がやっつけたのだそうだ。

怖いね、お片付けしようね、と言った。

(2021.06.13)