梅雨

滋賀は梅雨曇りだ。

昨日はマッチングアプリで知り合った人と京都府立植物園に行った。あじさいを一緒に見たのだが、色んな種類があるものだ。私はその人を好きなのかどうかわからない。その人と直接会ったのはこれが初めてだ。感じは悪くないが、私がどうしたいのかまだはっきりしない。考えるともやもやするから考えないようにする。

UNICORNのベスト盤を聴きながら電車は京都に向かう。奥田民生さんが人のライブに出たが、泥酔してろくに歌わなかったと聞いた。その人の歌をYouTubeで聴いたが私の好みではなかった。それで一瞬、奥田民生さんが泥酔してもしかたないかなと思ったが、どんな理由があっても侮辱されることは誰にとっても耐えがたいことだ。まして私は小さいころから同級生、先輩、後輩、先生などさまざまな人からバカにされて来て、バカにされることが死ぬほど嫌になった上、人のことをあまり信じられなくなっているのだから、いくらライブの人の歌がつまらなくて気に入らなくても奥田民生さんの行為を許すわけにはいかない。

たしか夏目漱石が「余は諸君らの台所に卑しいものを届けたことはただの一度も無い」と言っていたような気がした。調べても出ないから私の勘違いかもしれない。ただ、この言葉の表す気持ちは大好きで、卑しくないものを世の中に出すことはとても大切だ。五代目古今亭志ん生が言ったように芸には人間が出る。卑しい人間は卑しい芸になる。軽薄な人間は軽薄な芸になる。かたい人間はかたい芸になる。だから自分の中身を卑しくないようにするのは大切なことだ。自分で「これは卑しくない」などと思っていても、日頃が軽薄だったら出るものは全部軽薄になる。軽薄な芸は見るに耐えないと思う。軽薄な芸を世の中に流して世の中を軽薄にすることに憎しみや腹立ちを覚える。でもそうしたら自分も許せなくなるから面倒だ。自分だって軽薄で卑しい部分が沢山あるからだ。

批判というものは自分に返ってくる。だから人のことは見たくない。見ればさまざまな批判が湧くからだ。批判が湧けば、自分自身にも同じ批判が向いて、生きるのが辛くなるからだ。

私は昨日デートのあと、一人で上賀茂神社に行った。宮では夏越の祓をやっていた。青々した茅の輪はいいものだ。新しい草のにおいと上賀茂神社の境内の川の瀬の音が混ざって私たちの頭のごちゃごちゃを少しだけ風通し良くしてくれる。

梅雨曇りの下で頭と心を悩ませるということはしたくない。先のことを考えると、「こんな生活が一生続くのか」と思うと、誰しもやり切れなくなる。本当は人間の頭で先のことは一ミリも分からないのだ。先のことを考える人間は病気だ。しかも誰もがもっと先のことを考えるように互いに圧力をかけるから、耐えられなくなった人が死んでしまうのは無理もないことだ。

頭が悪くても性格が悪くても体がモヤシでも現在ただ今のことだけ見ておればよいのだ。未来のことも他人のことも見たくない。それはウィリアム・オスラーも言っているし、新約聖書にも書いてあるし、神道でも中今というのだから正しいことだ。

中今を邪魔する魔障は全て滅ぶべきだ。

中今についての調査は進んでいない。

今日は臨床文藝の集まりだ。私は徳利と日本酒を持って行く。割れないように気をつけながら、湿気に満ちた滋賀を南下しながら、結婚したいなあと思いながら。

空谷子しるす