矮小である。
というのはいつものように私は自分が惨めになっているのであって、妻との衝突、仕事の失敗、過重な精神的肉体的負担が私を痛めつけた上に、寒いし腹も減っているので、とても捨て鉢な気持ちになっているのである。
妻は言った。
「NHKばかりしか見ないとか変わり者だ」
私からしたら民放のバラエティを見て芸能人のあれこれに詳しい妻は変わり者である。
吉田のラーメン屋「みみお」に来てラーメンを待っている。
今日は節分だから街に人があふれている。節分は好きだ。春めいているし、正月や夏祭りより馬鹿騒ぎしないからだ。ひいらぎも、いわしも、いりまめも全部好きだ。
昨日は熊野神社で福袋と八つ橋を買った…福袋に挿してくれた梛の枝は家に帰る間に取れて落ちてしまった。最近落とし物や忘れ物が多い。今日の朝は電磁式切符を落とした。私の頭が限界を訴えているのだ。
否定的な感情が湧き上がるのは自分が理不尽な目にあっていると思うからだ。それは一面には正しくないが、ある面では正しい。私の自力のなさゆえに人を苦しめることは私もつらいことである。妻は自力の人である。改善すればいいと私に言う。そうかもしれない。妻は本来難しいことは言っていないのだろう。私にとってそれが難しいのは何故なのだろう。私がもしかしたら定型発達者ではないからだろうか。
私は生きていてはいけないという思いが出てくる。腹が減っているからだ。ラーメンはまだ来ない。店長は忙しく働いている。節分の客が店内を埋め尽くしている。店内は不思議な調和がある。私はみみおのラーメンが好きだ。
結婚。あの披露宴というものは本当に私に不向きで、似合わないことばかりだった。脳が回らなくてまったく事態を把握できなかった。
新しいことを行うというのは多かれ少なかれ傷がつくことである。新しいことの全てには苦しみが伴う。傷がつくのは悪いことではない。人生は全てが苦しみであり、傷を負うために生きているからだ。多くの傷そのものが私なのだ。そして、私につけられた過去の傷を、さまざまな新しい状況が否定していく。古傷の上に新しい傷をつけていくのだ。傷は悪いことでは無い。傷そのものが人そのものだからだ。生きる上で全てのあらゆる一切が苦しみを伴うからだ。
私の長所。人へのやさしさ。多くの人が評価するらしい部分。それは私そのものではない。大量の傷の上に浮かんだ油粕みたいなものだ。私の本質は傷そのものである。
節分は好きだ。悪いものを出して新しいものがくる日だからだ。実際には来なくても、「新しいものがくる」とみんなが言う日だから私は好きだ。
ラーメンはまだ来ない。
もしかすると傷は私そのものではないのかもしれない。私は傷の上に浮かんできた油粕が本体なのかもしれない。そうすると妻は正しい。私の優しさというものを眺める妻は私の本質を見ており、私の傷を眺める私は私の本質を見ていない。
彼女は正しいのかもしれない。
空谷子しるす