由布院

妻と由布院に行った。

というのは我々は新婚旅行がまだだったので、勤め先の病院が変わる際に休みが取れそうだったからそれで二泊三日で旅に出たのだ。

九州は線状降水帯がやってきていた。

私はちかごろは雨に降られぬことが多く、それは或いは神様の賜物かとも思うのだが、果たして大して降られもせずに旅を終えた。

私ははなはだ疲れた。観光客向けの店が疲れさせたのもある。妻が将来大阪に住みたい住みたいというのが心にのしかかるのもある。三次救急病院のつとめが苦しかったのもある。小児科専門医のための論文が書けないのもある。

私は限界をとっくに迎えている。しかしそれを限界と思わずに歩いている。そうして私はこれからどうなる?壊れて死んでしまうか、あるいは別種の私になってしまうか、そこは本当にわからない。

由布院には宇奈岐姫神社という古社がある。由来はわからない。延喜式内社だから相当古い。うなぎひめとはなんであろうか。いまだ知らない。

由布岳は雲がかかりその頂きはついぞ見えなかった。由布院の里は清らかな水が流れ、美しい流麗の緑の藻が乙女の髪の毛のように滑らかだった。

しかし私の目はそれを楽しむ力はまだあっても、私の頭はそれらを楽しむことができなくなってきている。

産まれてくる児のこと、仕事のこと、大阪に住むとか住まないとかいうこと、それらから逃げるためだろうか、最近物理学のことを楽しみたくなった。物理学の本を読むようになった。しかし理解はできない。

世の中の真理が知りたいと思うのだが、実際は苦難から逃げたいのであろうと思う。私は物理学を理解して新しい知見を得るだけの知能が足りてはいない。

私は何をすべきなのか(わたしはなにをすべきかは分かっている。そうではなく、私は何をすべきかが知りたいのだ)。私がよく生きるためになにをすべきなのか。それは人間は答えを持たない。一切全ての人間は答えを持たない。神様のみがご存知で、或いは私に知らせてくださることと思う。

空谷子しるす

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