水無月

水無月の夏越の祓えする人は千歳の命のびると言ふなりとは昔から伝わることだが、私はまだ今年はやらない。

新しい勤め先は(相対的に)殺人的に忙しい。もちろん私が「やわ」なだけで、まともな医者なら簡単にこなせる業務なのだろう。私は多く上の医者から詰られ、私は自分が医者をやるのに頭が足りないことを痛感する。

妻の妊娠もあいまって、私は常に未知の領域に翻弄されている。私は自分に自閉的な傾向を認める。新しいものへの順応や器用さ、社交性…それらは私に乏しく、小さいころから生き方が世の中に合っていない。私はいっそ己の趣味創意で暮らしていきたい。自分の好む美しいもの、空間で生きていきたい。入江泰吉の写真のような空間で生きていきたい。そんなものは現代日本のどこにもない。そんな甲斐性は私のどこにもない。

美しいもの…美学というのは金持ちに必要なものではない。美術館も、絵も、彫刻も、元来過酷な労働や凄惨な疾患、精神を侵す悪霊、背中と心窩部を灼く貧窮に対峙している人々にのみ必要なものだ。金持ちは永遠に絶対的に芸術がわからない。なのに美学は、凄惨な仕打ちにあっている人間には、金も時間も経験もないから、美学に触れることができない。もしその恵みに触れたなら、残忍な現実でもなお生きていくことができるのにだ。そうした機会を奪い、我欲にまみれて醜い世の中を我欲を守るために作り上げ、世の中から美学を途絶させる金持ちは絶滅せねばならず、もし私が帰幽して威力を得たならこれらを寸刻みにして滅ぼすだろう。しかし、美学を愚弄し、神を侮蔑し、いやしき欲望と支配欲と攻撃性に身を委ねて、人をギヨティーヌにかけるためだけに追い求めるかのような闘争だの革命だのを求める貧乏人もまた絶滅せねばならぬ。

水無月という風流の菓子がある。あれが必要なのは誠の艱難辛苦にある人々である。風流は艱難辛苦にある人々のためのものである。自然に向かって生きている人間はすべて艱難辛苦と向き合っている。人間のあいだに生きている人間はすべて楽をしている外道である。古今東西、人間が生存のために作り出した環境である「都市社会」のなかでうまく生きる人間はつまらない人間だったと思う。縄文時代のように、すべての人間がいやおうなしに各々の程度によって自然に対峙せねばならなかった時代のほうが、はるかに洗練されて勢いがあるように思う。東京などはいちど滅びねばなるまい。

もうむくつけき病気、むくつけき医者、むくつけき乾燥したものどもは嫌だ。西洋人は賢く、知識や学究が乾燥しているぶん、べつのところに美学の余地を得ている。日本人は馬鹿にまじめだから人生や周りの社会全部を西洋人の乾燥している部分のまねをして乾燥させて、得意になっているうちに自ら窒息していっている。

むろん私は直観でたわごとを口走るだけだから、ことばの意味を問われてもしらぬ。クルアーンに出てくる「詩人」のようなものだと思う。私の言うことはある程度正しいが論理的な説明はできぬ。

空谷子しるす

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