比叡山の近江がわのふもとは坂本と言い、そこには山の神と三輪の神を祀る日吉大社がある。その社をさらに湖側に降ったところに私たち夫婦の住まいがある。
夫婦になってひと月が経ち、いまはまだ妻も機嫌が良いようだが元来私は不器用で物事をうまく処理するを得ないから、ときおり妻に叱られるのが今後はいよいよ加速して愛想をつかされることも十分にあり得ることである。よし子どもができたらなおさらであろう。さまざまな手続き、育児そのもの、家事、それら全てを仕事をしながらやらねばならぬとあれば、私は対応できる気がしない。小児科医としての仕事も全然不十分であれば、これはもう妻に怒り狂われ、仕事のうえでも疲弊することは容易に想像できるのである。妻はとても器用な人間で、みずからが思い描く状況があり、それはしばしば言葉で表現されない。私は彼女の器用さについていく能力がないのだから、彼女の理想を満たさず、彼女の不興を買うことが常のことだ。それを自力で「がんばって」改善することは絶対的に宇宙的に普遍的真理として究極的に一切不可能なので、いよいよ祈り続ける。
養老孟司氏の「ものがわかるということ」という本を読んだ。
彼はつねに「情報」と「身体」のちがいについて述べているようだ。身体が私たちそのもの、私たちの個性であって、私たちを捨象した情報は私たちではない、ということかなと私は彼の本を読んで勝手にそう思っている。「個性」というのは幻想なのかと。
情報は変わらない。「私」というものを規定していると思い込んでいた数々の思想やこだわりは実際には私そのものではない。私が身体であるとするなら私は変容していくはずである。頑迷とは愚かさなのかもしれない。変容することを考えなしに受け入れることが「いい」ことかもしれない。
とくに私は人より考えすぎるようで、箕面の神父にもそのようにたしなめられたから気をつけなければならない。考えることなく、妻との暮らしで変容していく。変容して適応しようとしているのだ。しかしいくら適応を試みたところで。私の能力が不十分である以上、妻との間にいずれ深刻な相剋が待ち構えているだろう。人間の愛情や感情はそれこそ生きたものであり、かならず変わり続ける。それは人間の「自力」による努力などでは保つことのできないものだ。
祈らなければ何一つ行うことはできない。
祈らずにいられる人は幸いである。なぜならば彼ないし彼女は私と違って能力に恵まれているからだ。
空谷子しるす