覚書15

物を書くようになってすぐまともなものが書けなくなった。

結構のある小説、理路の通った論説、いずれも面白くなく全く書けなくなった。書きたいとも思わなくなった。

たまに頭の通りが悪くなり、はたからみるとよくなったときに少し通じることをいうと、ちゃんと薬を飲んでいるのだろうとか、体験から逃れているのだろうとか見当違いの想像と微笑ましいような眼差しを向けられて、そういうときはおむつのなかでよりいっそう激しく放尿したくなる。むしろおむつをはずした瞬間に放尿したくなる。放尿は時に正義だ。

廊下を歩いていると、両脇にいつも同じような感覚でうつろな表情で、というより中毒症状やひとりで脳内で闘志を燃やしている人たちが、昼の日光を浴びて、外部と交流している。頑張れよとおむつをした私はふらふらでそこを通り抜ける。天井を突き抜けるように、地面を睨みつけながら、腹はまっすぐ突き出して。

中庭に四葉のクローバーが密生している一角がある。誰も気づいていないのかむしろ不気味に思ってか、手はつけられずにいる。岩陰になり日当たりも悪く、小さくなれるから私は彼女か彼らが風で微かにそよぐのをみながら岩に張りつきながら、耳を澄ましている。小さな声をききとろうと。

ある日、エアコンもきかないような図書館の自習室で勉強する学生に紛れて、私も勉強する学生だったじぶんに、官能小説を書いていた。図書館の廊下の窓に差し掛かる木の枝からはリスが飛び乗り、図書館を行ったり来たりしていた。薄暗い古い建物でいつも人がいても図書館だからというわけではなく、静かだった。

もっと小さい頃は母とプラスチックの赤いカゴを持って、絵本などを借りにきていた。

私は勉強もせずに官能小説ばかり書き続けていた。主人公は変態だった。いつもなぜか同棲している年上の女の人の歯ブラシをしゃぶっていた。プロレスごっこと称して子供たちは女の体に触れたがった。

それから私はAV監督になり、ストーリー性のある作品を作ることにこだわった。AVなのに女はほとんど裸にならず、むしろ最後まで裸にならないのではないかというところで裸になったりならなかったりした。ならなかったりしたものだから男はおこって怒って酷評する。主演女優のひとりはやさしい作品を作ってくださりありがとうと引退するときに礼をのべた。彼女がいちばんきれいにみえる作品を撮ろうと思っていた彼女だった。体ではなく彼女ごときれいだと思わせる作品が撮りたかった。AVというジャンルである必要があったのか?とある人は言った。AVでなければならなかったと思うと私は答えたが明確な理由は言えなかった。それはあえて言葉にする必要もないと思っていた。わかりきっているじゃないか。わかりきっていることがわからない人だけがいつも問うている。

彼女はヴェールを纏い(比喩ではない)、教会で天を仰ぎ、日記を綴り讃美歌を歌う日々を半分ドキュメンタリーとして撮った。半分ドキュメンタリーというのは彼女は教会に行かないし讃美歌も歌わないからで、ただ日記は書いていたから。あの年の夏の日差しを彼女とともに収録できたことは私にとっても幸福なことだった。何本も並ぶ彼女の作品の中で脱がなかったのは当たり前のように私の作品だけだった。それをAVとする必要があったのか?と人は問うが、何度も問われるうちに私はまともに答えることはせずにその都度考えるようにわかりませんと言うことにした。

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