覚書10

何十年も前に言うべきことを言えずに離れた人とすれ違いざまに、もっと前に暖炉のある家でワインを傾けて、頬を照らし何も言わず、むしろ毒づいていっそ嫌われようとしたその人と施設で再開したときには互いに顔もわからず、記憶も曖昧で言葉も出ないが静かに微笑みを交わし合い、「どこかでお会いしましたっけ」と昨日のことも忘れて、それでも他生の縁と思うのは巡りめぐってただ正しいこと以上に実に正しいことのように思われた。

彼は若い頃に男に接吻された話をした。「そういうことも何度かあった」テーブルの吸い飲みを加えて少し咽せ込んだ。車椅子を挟んだ正面に窓があり、眩しそうに揺れる木の枝のあたりを見つめている。

私は彼がするテレビゲームの画面を見ていた。彼はゲームの最中、ローディングの時間だったか、おもむろに振り返り唇をあててきた。産毛のような髭の感触が口元に残る。彼はじっと私をみて、何事もなかったかのようにゲームを続けた。

彼はまた吸い飲みに手をかけたが、今度は飲まずに少し吸い飲みのお茶を揺らしただけだった。

彼が何度唇を押しつけてきたのかもはや覚えていない。中学の頃の話だ。彼はもっと親密になろうとした。私がそれを拒んだのはある種の羞恥からで、けして彼のことを拒んだわけではなかったが、それから彼は私の家に来なくなった。高校に上がった頃には綺麗な彼女とうまくやっているらしいというのを風の便りで聞いた気がするが、夢かもわからない。私もそれからだいぶ先の話にはなるが、女性と付き合うようになった。男性との関係は一切なかった。世にこんなにも男がいるのに勿体ないと言う人の気持ちはわからないことはない。ただあえて出会おうとする気がなければ、機会は極端に少なく女性のほうに結局流れるのだろう。

彼は別室の彼女のところを足繁く訪ねた。尿道に繋がった管に気づかずに、尿の入ったバッグを置いたまま走り出すものだから看護者にとっては厄介な行動であったかもしれないが、彼は手を縛られようと、体を縛られてようと、手袋をつけられようと、囚人服のような服を着せられようと、何をされようが拘束具をひきちぎってでも彼女のもとへ向かおうとした。彼は「妻だ」という。彼女のもとへ無事辿り着くと、奇妙なことだが自然と懐かしい気持ちが溢れてくるのか、穏やかな表情になり布団を掛け直し、今日もいい天気だねと窓の外を眺める。彼女は視線が合わないまま遠い方を見つめている。