ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来』

ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来』

  久しぶりに実家へ帰ってきた。前回来たのはもう一年以上前になる。玄関にはピンクの柵が立てかけられており、来客は柵を跨がないと入れなくなっている。それはもう十年以上も前からずっとおそらくそのままだった。犬が二匹おり、柵をしておかないと庭に放したときに、玄関を抜けて全速力で駆け出してしまうから。家の前には田園が広がっており、1kmくらい先までは見渡せるかもしれない。犬が逃げたらすぐに見つかることが多いが、田んぼの反対側はすぐに道路になっているため、反対側へ向かうとはねられてしまう危険も高い。犬がまだ小さい頃はよく脱走して、皆で探し回ることもあった。最近そういう話は聞かない。もともと三匹だったが、昨年白いトイプードルが老衰でなくなり、茶色いトイプードル二匹となった。

  来客はピンクの柵を越えるか、横の駐車場から中に入るしかない。内玄関までは石畳となっており、左側には中庭のような空間がある。芝が生い茂って、ずっと立ち入ることも難しいくらいだったが最近人工芝をそこに被せてゴルフの練習場にしたらしい。球を数メートル先の的へあてる程度の簡素なものだが。

  次女が来るのは初めてだった。母を見ると辛そうな顔をして泣き妻を手探りで求めた。長女は初めてではないが、だいぶ久しぶりのことでかしこまっていた。長女は4歳、次女は1歳になる。ここへ来る数日前から長女は妻の実家へ滞在していた。妻の母が京都まで迎えに来て新幹線で連れて帰ったのだった。長女はホームシックにかかることもなく毎日楽しく過ごしていたようだった。妻の妹の子供が二人おり、プールをしたり自転車に乗ったりして遊んでいた。長女はまだ自転車には乗れなかったが交通公園で練習して補助輪付きだが一日で乗れるようになったとのことだった。

  私の実家に来た長女は姪っ子と別れがたかったようで、彼女のところへ帰りたいと泣きながら訴えた。私の実家にもあと2、3日で姉の子供たちが来ることになっていたが、今は周りも大人だけということもあり姉の子供たちが来るまでは子供たちと妻は妻の実家で過ごすことになった。

  ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来』はまだ予約の段階で姉に教えてもらってamazonで購入した。車の通勤中に2/3くらいは読んでいたが、残りを一人になった時間で読むこととなった。ピーターはALSに罹患した。経歴や粗筋は調べたらすぐに出てくると思うので割愛する。端的に言うと、ピーターは人間とAIとの融合を目指している。人間としてのピーター、つまりピーター1.0からサイボーグとしてのピーター2.0への変容を遂げること、そして人間の生物としてのピーターの死後はAIのピーター3.0として生き延びること。2.0は現実の世界を生きながら、仮想現実としての世界も同時にVRのゴーグルをつけることで生きることができる。そこでは五体満足で魔法さえも使うことができる。2.0はまた現実の世界に遍在するようになる。生物としてのピーターがどこにいようと、2.0は講演会を複数の場所で同時に別の言語で行い、存在することができる。AIはピーターと融合しているので、ピーターというアルゴリズムを学習してどこにでも同時に存在し応答できるようになるというわけだろう。

  私はまだ観たことがないがAIとかバーチャルリアリティといえば映画のマトリックスを想起する方もいるだろうか。私はこういう話を聞くとつい90年代後半に放映されたアニメ『serial experiments lain』(1998年)を思い出す。レインは現実の世界とワイヤードというコンピュータネットワークの世界に遍在する。現実の世界と仮想現実を往来できるのはそもそも人間が発する電磁気によりコンピュータの端末として中継となれるからである云々といった話だったと思うが、すでに子供の頃の記憶なので曖昧である。

  ピーター2.0が目指しているのはレインなのだろうか。AIの予測変換の究極は意識の共有だろう。それが伝達速度としては原理的に最も速い。Wired Brainについてはジジェクも言及している。その是非はわからないというか、機械と脳を接続することは今後何かしらの形で可能になるだろうしその流れを止めることもできないだろう。そしてWired BrainなりAIと人間/脳の融合が普及すれば確実に倫理の再構築も求められる。というよりも今からすでにその時に備えておく必要があるだろう。

  すでに現実となる前からピーター2.0を受け入れる下地はできていた。Googleに代表されるインターネットサービスはモニタリングし個々を繋ぐことで自他の境界や絶対的他者の存在を不明瞭なものとし、レインの世界観の基底にある集合的無意識とかユング的世界観に傾斜していくポテンシャルがある。

  問題はそうしたときに如何に他者性や責任を担保していくか、ということだろうか。ピーター2.0や3.0は何も新しい問題ではない。人と簡単に繋がることができるようになったということは、繋がらずにおくことが難しくなったということで、卑近な例では携帯電話が普及したおかげで仕事がサボりづらくなった、もっと遡れば車が普及したおかげで労働に従事する時間が増えてしまったということでもある。テクノロジーと接続は切っても切れない関係にあるかのようだが、切断のテクノロジーのことも今後はもっと考えていく必要があるだろう。単に個人の選択でtwitterをしないとかfacebookをしないとかいうことではなくテクノロジーの次元で接続解除するということ。

  自宅の本棚にはもう10年以上前に購入した本が無造作に並んでいる。本は色褪せる。中身の問題ではなく、物理的に文字通り色褪せ埃に塗れている。電子書籍やバーチャルリアリティは古くなることができない。

  実家の引き出しに指輪が入っていた。内側の刻印を見るともうすっかり忘れていたが、2007年に作製されたものらしい。もともとシルバーのリングだったのだろうが、今では錆び付いて黒々としている。子供たちはまだ帰ってこない。体操教室に連れて行ってもらっているらしい。妻の電話の向こうで笛の音と子供たちの声が聞こえる。犬はいつものようにリビングのソファでうたた寝をしている。