じゅんじゅんで

2歳3ヶ月男児のこと

最近、何かにつけて「じゅんじゅんで」と前置きする。
行為の前に発せられる。
その意味するところは、「自分で」である。
何かを食べるときも、コップに牛乳を注ぐのも自分でやろうとしなければ気が済まない。結果、床が牛乳まみれになる。
風呂掃除のときも、すかさずやってきて、じゅんじゅんで、とやるのだから閉口する。
その行為が自分で完遂できるか、という見立てはまるでない。
とにかく、自分が関わる行為は、じゅんじゅんでやりたい。
誰でもなく、<わたし>がしたい。

時を同じくして、正確には、それに数ヶ月先行して「見て」という要求が頻用されるようになった。
最近では、帰宅すると、まず「見て」と発語され、手をとられて舞台に連れて行かれる。
見て、と言われるから見る。
見ているその最中にも、重ねるように「見て」と要求される。
見られている以上に苛烈に、とにかく見られることを欲している。
そこから結論されるのは、<何かしていること>を見て欲しい、のではなく、何かしていることを<見て欲しい>。
目的は見られる、という他者のまなざし。
<他者>にみられたい。
この他者は必ずしも親である必要はないようだ。
しかし、全くの他人ではいけない。親しいと感ぜられる他者。
他者がある程度、親しくなれば、彼は其の者の手をとって、「見て」とやる。

これら「じゅんじゅんで」と「見て」をまとめると、
彼は<わたし>がしたくて、それを<他者>に見られたい。

なるほど、2歳2語文はその通りだとうなずかされる。
彼は2歳ぴったりでは2語文はほとんど使わなかった。
しかし、2ヶ月ほど経ると、いつのまにか2語文を使用するようになっていた。
2語文では主語がたつ。
「ママいない」といった具合に主語と述語が構成される。
「にゅうにゅう(牛乳)飲む」のように述部のみのこともある。
しかし、より革命的なのは主語が据えられることだと思う。
<わたし>が・・・

「自分」という言葉の面白さについて聞いたことがある。
自ら分ける/分かる、自ずと分ける/分かる。
自分という表現には、自と他の区別が含まれているようだ。
「じゅんじゅんで(自分で)」という要求には、まず自分と他者が区別されなければならない。
誰かに「見て」と要求する際にも、自他の区別が前提されている。

言葉の獲得について、チョムスキーは生成文法を唱えた。
経験的な言語への曝露以上に、そもそも生得的に文法を理解する能力がある。
なるほど、人間のCPUには言語に関わる根本的な能力が含まれているのであろう。動物と人間を弁別するところの、言語使用能力だもの。

それ以上に、彼の「見られたい」という欲望を駆動させるものは何か。
文法以前にある、あるいは文法と同時に立ち上がる「他者のまなざしへの欲望」はどう説明したらいいのか。
私は何も抽象物を据えたいのではない。
生活実感として、私と妻は彼の「じゅんじゅんで」という欲望と、「見て」という欲望に圧倒されている。

素寒