下顎呼吸のポジティビティ

あるお看取りから数日後のこと
「先生に下顎呼吸のことを教えてもらっていたので、もうすぐに(父が)亡くなってしまうと思い、家族・親戚で父親を囲みお別れの挨拶をすることができました」と娘さんが挨拶にきてくれた。

私は、医療従事者ではない一般の方が、下顎呼吸を適切に見抜き、心の準備をできたことにとても驚いた。
事前に下顎呼吸が何かをお伝えしたのはかく言う私ではあるのだが。

下顎呼吸は、顎であえぐような呼吸のことを言う。
われわれ医療者は下顎呼吸を見ると、この患者さんは後数時間で亡くなる、と判断する。
医療従事者でない一般の人から見れば、喘いでおり苦しいのだろうかとヤキモキする呼吸である。

その下顎呼吸のことを、高名な徳永進先生は、「死への旅立ちの呼吸のよう」と表現する。前述の通り、医療者にとって下顎呼吸は命がまさについえることを示すネガティブな兆候である。
しかし、徳永先生はそれを反転させた。死への旅立ちのポジティブな準備として。
一見、苦しんでいるように見えるけれど、実は苦しんでいるのではなくて、太古の昔から人間が生を終え、死の旅路へ向かう時にする準備の呼吸ですよ、と説明すると、家族は大変安堵される。

考えて見ればお看取りの際、医師の仕事は実にネガティブである。
医師が最低限確認しなければならないのは、いわゆる死の三兆である。
呼吸の音が聞こえ無い、心臓の音が聞こえ無い、目に光を当てても反射が無い。
これら三兆をもって、死がここにあると宣言する。
つまり、無をもって、無がここにあると宣言する。
医師は宗教者ではないから死後の世界を具体的に説く責務はない。
忙しい当直の夜に、これまで関わったことのない患者が亡くなるということもある。家族の前で、死の三兆をもって死を宣言し、そそくさと救急医療の現場に戻らなければならない場合も多々ある。
医師は臨終においてネガティブな役割しか果たすことができないのだろうか。

私は徳永先生の表現を参考にすれば、臨終においてもポジティブな役割を担うことができると考えている。
具体的に死後の世界について説くことはなくとも、漠然と「あちらの世界への旅立ち」と表現することはできる。
終えるのではなく、始まるのだと。

最近、ヒガンバナが咲いている。
彼岸(ヒガン)はそのまま「あちらの世界」である。
厳密にはこの「彼岸」はサンスクリット語からの翻訳で「悟りの地」を意味するから、われわれが漠然と思う死者がいく「あの世」のことではない。
一方で、ヒガンバナには曼珠沙華、死人花、幽霊花などの別名がある。
確かに群生するヒガンバナをみているとえも言えぬ心持ちになってくる。あの怪しげな紅。

曼珠沙華 消えて 大地に骨ささる (三谷昭)

日本語の「あの世」や「あちらの世界」は頻繁に使うことはなくとも、死語では全くない。
われわれがもつ素朴な「あの世」を想定しながら言葉を紡いでいくことは、ただちに「それは宗教的言動だ」として退けられるべきものではない。肯定表現が看取りを迎える家族に安心を与えることもあるようだ。
そのようなボキャブラリーを開拓することで、臨終において医師は否定に加えて肯定的な営みができるのではなかろうか。

素寒