あっちに行きたい

終末期がんを患う80代女性が、少しでもよいから自宅に帰りたいと言っている
と病院の先生から相談があった
われわれ在宅緩和ケアチームがその願いを遂げるべく、病院でのカンファレンスに臨んだ時のこと

私は病床の患者さんを訪れた
彼女は肩で呼吸をしており苦しそうであった
呼びかけたところ明確に反応があった
私は自宅での生活をお手伝いする医師だと自己紹介をした

すると、彼女は半ば喘ぎながら「もうお家に帰るのは難しい・・・少し動くだけでも苦しい。もうあっちに行きたい・・・」

通常、このように終末期の患者さんが苦しみながら、「あっちに行きたい」と言った場合、周囲にいる者は「苦しくてもうあの世に行きたいと言っているんだな」と理解することが多かろう。
そのような時に「あっちとはどこのことですか」と尋ねるのは野暮というものである。
打算的な私は共感を示すつもりで
「苦しくてもうあっちの世界に行ってしまいたいんですね」と問いかけた。

「4階に行きたい」
力なく、しかし明確に彼女は私の問いかけを否定した。
4階は緩和ケア病棟のある場所で、先日その患者は緩和ケア病棟の面談を済ませていた。
「苦しくってもうあの世に行きたい」と言いたかったのではなく、「苦しいから自宅ではなく緩和ケア病棟に行きたい」と言いたかったのだ。
私は自分が度のきつ過ぎる冗談、冗談ではすまない冗談を言ってしまったことに気がつき、恥じ入るとともに失礼をお詫びした。

その後、彼女は希望通り緩和ケア病棟へと移動した。

おバカな私のはやとちりである。

素寒