覚書8

彼女は絵を描いているといい、Twitterのアカウントを教えてくれた。漫画だった。どんな絵だったかはすでに覚えていない。酒を飲み、無料の音楽をパソコンで流していただろう。笑顔は少なく、視線の交わりも少ない。体に触れるでもセックスをするでもなく、ただ時間を潰していた。

フィールドワークといえば聞こえは良いが、そうではないだろう。私にはそうするしかなかった衝動があった。

学生時代にわからなかったのは、学生の従順さであった。学生同士はコミュニケーションをとり、答えを導き出すには教科書より何よりも人との交流が必要である、ということは勉強はしなくても仲間内で同じことをしている人が得をするし人と違うことをしていればどんなに頑張ろうが評価されない、ということに不満も不平も違和もなく当然のこととして互いに排他性を強めていく。

こんなことを書いている私はずぼんもパンツも履いておらず、シャツも着ておらず、気づけば涎のような液体が顎や胸元にひろがり少し鼻を突くようなにおいがするのだが、不思議と嫌な心地はしない。田中さんか山田さんか、忘れたが待っていれば彼女が私のお尻を拭いておむつをはかしてくれるに違いない。もうどのくらい待っているかしれない。待っていることさえ忘れているのだから待っているということにすらならないし、待たれているのかもしれないし、少なくとも待たされて怒るのはこの際見当違いだろうと思った、というのは待っているのか、待っているとすればどのくらいなのか、あるいは待たせているのか、待たせているとすれば私は彼女を待たせないために何をすればよいのか全くもって見当がつかないのだから。

金木犀も落ちかけている。空気が張り詰めてきた。鼻の奥が痛いくらいだ。寒い。裸であるからなおさら、寒い。私は待っているのか待たせているのか、どちらでもよいが清々しい気持ちで裸のままで寒いままでいた。

馴れ合いも好まず、いがみ合うのも性に合わず陰謀めいたことにも馴染めず徒党を組むわけでもなく孤立無援で奮闘するわけでもなく変わり映えのしない哲学思想宗教に嫌気がさしかといって誇大的に自説を披瀝する若さと驕りからも遠ざかり、かといって生理的な欲求がないわけではないからしまりが悪いとなればおむつをしないわけにはいかない、と独り言を呟きながら鴨川の河川敷に寝そべり芝生についた露の冷たさを感じワインをラッパ飲みしている。

携帯電話の下書き保存された文書をひとつ読んでみる。数年ほど前に書かれたものらしい。送信はされなかったのだろうか。

つらかったですね

辛口でとのことですがやはりあなたは悪くないと思いますよ

ハーマンの心的外傷と回復という本があります

心に傷を受けた人が加害者に愛着を持っていることはよくあることで、傷つけたという事実はあなたが先生のことを好きかどうかとは関係ないと思います

あなたが好きだったのなら先生はなおさら罪深いことをしたなと思います

実際に訴えたら強制わいせつ罪や傷害罪に問われると思います

あなたが罪の意識をもってしまうことも、よくあることなのですが、何も悪くないですよ

憧れている人に会いたいと思うのは自然な感情です

被災者でも生存者罪責感というのがあります。自分だけ生き延びてしまって申し訳ないと感じてしまうという

レイプされた方もそんな夜道を一人で歩いてたほうが悪いと人から言われ自分でもそう思ってしまうことがあります

そうして最初の傷を軽くしたい、どうせ自分が悪かったのだからという気持ちもあって、新しい傷を自分から受けに行くような行為を重ねることがあります

たとえば男性からセクハラを受けるような状況に自分から飛び込んだり、DVする男性と付き合ったり風俗で働いたり

私が心配してるのはそういうことです

必ず弱った心に付け入ってくる人がいて、そういうことにまた巻き込まれてしまうことがあります

あなたはまだ若いですし人生も長いですから、変な悪循環には巻き込まれずに希望をもってほしいです

傷は皆言わずとも一つや二つ持ってることがあります

一つの区切りとして先生とは連絡をとらない、訴えるなど、どうするかは答えはないと思いますがあなたが次に進むためにどうしたらよいかを第一に考えて決めたらよいと思います

これは個人的な意見ですが 傷を愛せるようになれるといいと思います

傷ついた気持ちはどうしても残ります。消そうと思っても消えないから別の傷を重ねて深みに落ちてしまうことがあります

あなたはこれからがありますから最初の傷だけで十分です。先生が好きだったように、その傷だけを大切にして次に進めばいいと思います。

普通に考えたらいくら好きと言われても嫌がる未成年に繰り返し性的な行為をするのは犯罪ですしその子の気持ちを考えた行為とは言えないのですべきことではないです

あなたは何も悪くないですよ

これを書いた人間が誰だか今の私にはわからない。

私は本棚から『傷を愛せるか』という本を探して読み直してみた。

傷のある風景から逃れることはできるかもしれない。傷のある風景を抹消することはできるかもしれない。けれども傷を負った自分、傷を負わせた自分からは、逃げることができない。記憶の痕跡から身体が解放されることはない。(p224)

傷のある風景が残りつづけることによって、人はときに癒される。終わらない、長い「戦後」がそこに記されている。

くりかえそう。

傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。

傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。

傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。(p226)

(宮地尚子『傷を愛せるか』)

傷つきに気づく。ということが実はなかなかお互いにできない。

傷自体を覆いたくなる。

何も今私が裸でいることの言い訳をするためにこんな話を始めたわけではないだろうが、私は何を言っているのかさっぱりわからない。やはり裸でいることの言い訳をしたかったのかもしれない。私は果たして待たれているのだろうか。だとすれば申し訳ない。

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