『現象学の理念』

3年ほど前のプライマリケア連合学会でビブリオバトルに参加し、本書を紹介した。
その時の原稿を残していたので掲載する。
____________________________

みなさんは患者さんをケアするとき、寄り添うとき、どうすればケアになるのか、寄り添うことになるのか、困ったことはありませんか?

私は、非常に困っています。
訪問診療で例えば終末期ガン患者さんと向き合うとき、
手を握って傾聴したり、関係性に着目したり、自律性に着目したり、痛みには麻薬で調整したり、家族と医療従事者と連携します。
しかし、十分に寄り添えている、などとは決して思えません。
思ったとたん「お前はこの苦しみを経験したことがないから分からないだろう」という心の声が直ちにわきあがってきます。

例えば、家庭医療で有名なマクウィニー先生は死にゆくひとに注意を払いなさい、と指摘しています。
それもただの注意ではなく、完全な注意を、と指摘しています。完全な注意とはなんでしょう。
非常に抽象的です。しかし彼はわざわざ言い直しています。
イギリスのジョン・フライ先生は16世紀の外科医のアンブロ・パレを引きつつもケアの重要性を再三指摘します。
科学には限界があり、キュアにも限界がある。しかし、キュアはできなくてもケアは常にできると。
この学会はプライマリケア連合学会ですが、プライマリキュアではなくプライマリケアです。

でも、ケアがなんであるかを端的に明言したものは私はみたことがありません。
従って、普段はわたしは、例えば終末期がん患者さんに接する時、非常に困ります。
はて、よりそうとは?完全な注意を払うとは?

でもそれは、もしかしたら本来的に概念として定義できないもの、であるからかもしれません。
そのような時、この本はヒントを与えてくれるかもしれません。

この本の著者エドムント・フッサールは現象学の創始者です。
皆さんも最近ケアの領域で間主観性という言葉を聞かれたことがあるかもしれませんが、あれはもともとフッサールの仕事です。
この本は彼の仕事の最初期のものです。
彼は、認識とは何か、を非常に深く深く問い考え抜きました。
彼は認識とは、直接に、明晰に、直観することだ、と繰り返し指摘します。
その時、その認識から概念は排除せよ、とも指摘しています。
なぜなら、概念は、外側にあるからです。
ではなくって、直接的に知覚されるもの、目の前にあるものをしっかりつかんで、そこに注意を払え、と言っています。

例えば、私が、自分は何者かと考えた場合
男性で日本人である私、2000年代を生きる私は〜と記述してもよいでしょう。
愛国心ある自分として記述することもできます。
自然に考えるとそうなるだろう、でも哲学的に考えるとは、そのように考えることではないとフッサールは言います。
私は日本人でなくたって私だ。私は男でなくたって私だ。
日本人だとか男性だとかは、外部の概念であり色眼鏡にすぎない。
そういった外部の概念に頼ら判断を一旦中止してみよ、現象をそのまま直観せよ。
色眼鏡を外しなさいと言っています。
これが現象学的還元です。

この本は哲学書ですから、もちろんケアについての本ではありません。
しかし、フッサールによると、苦しむ患者さんに寄り添うとき、どんな教科書にあるどんな概念で、この人に向き合えばいいのか、と考えるのではありません。
外部に頼らず、内へ内へ。
今認識していること、患者さんとの間で起きている現象をそのまま掴む。
目をそらすな、完全な注意を払え。そうですマクウィニーの指摘する完全な注意と重なってきます。

ケアが定義できないかもしれないと言いましたが、現象学的に言えば、ケアは相手ありきです。
ケアとは何ですか、と言った場合に、それは誰のケアですか、誰との間でおきている現象のことですか?という問いが立ち上がります。
したがって相手不在の簡潔な定義はできません。

哲学書はだいたいそうですが、読むのが非常に困難です。
僕はこの本を30回くらい読みました。
10回読んで薄ぼんやり
20回読んでなんとなく
30回読むと、ああなるほど
非常に難解で、時に放りたくなりますが、頑張って読んでみてください。
哲学は実学としては役に立たない、なんてことは全くありません。
必死にしがみついてみてください。
苦しむ患者さんに寄り添う時、逃げるな、退くな、今起きていることをしっかり見よ、感じよ、そんなフッサールの息遣い、励ましが聞こえてくるでしょう。

素寒